「期待」とは、一般的にはポジティブなニュアンスでとらえられますが、心理学においては少し違います。
それは「要求」が形を変えたものであり、それがゆえに「期待」は常に裏切られます。
「要求」を満たそうとするのではなく、その奥にある欠乏感を見つめることを、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.期待は、隠された欠乏感をうめようとするもの
期待は要求から生まれます。
要求は欠乏感から生まれるのです。
期待とは、自分が何かをほしがることに対して身がまえ、まるで自分が依存していないかのようにふるまう行為です。
自立して傷つかないように防衛しながら、状況が自分の思い描いた現実像どおりであるべきだと要求するのです。
しかし、期待を含めてどんな種類の防衛行為も、つねに失敗にいたります。
そして「これだけは避けたい」と思っていたこと、すなわち欲求不満と失望、自分自身の欠乏感と依存性に直面するような事態を招き寄せてしまいます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.120
2.「期待」の心理
今日のテーマは、「期待」でしょうか。
一般的には、どちらかというとポジティブなイメージで使われることの多い言葉ですが、心理学の上では、それとは少し違った意味合いがあります。
順を追って、見ていきたいと思います。
心の成長プロセスのおさらい
昨日のテーマでも出てきましたが、私たちの心の成長プロセスは、「依存→自立→相互依存」という道のりをたどります。
はじめの「依存」の時代は、非常に「要求」が強い時代といえます。
「依存」とは、自分では何もできない状態です。
その状態にあれば、相手に何かをしてもらおうと「要求」するのは、ある意味で自然なことです。
しかし、相手が必ずその「要求」に応えてくれるとは限りません。
そうした「要求」が満たされなくて傷つくことが重なると、私たちは「自分で」それをしようとしていきます。
周りに、他人に頼るのをやめようとするわけですね。
それにより、一人で着替えることを覚えたり、自分で仕事を回していくことを覚えることができます。
これが、「自立」と呼ばれる状態ですね。
「自立」には、そうした自分で何とかする力を育む恩恵がある反面、誰かに頼ることが苦手になり、競争や勝ち負けにこだわることが出てきます。
「期待」とは、要求の変形である
今日のテーマの「期待」ですが、引用文にもある通り、依存時代に持っていた「要求」の変形と見ることができます。
「期待」がピカチュウだとしたら、「要求」はライチュウでしょうか。
そんなに可愛くはないですが笑
「要求」の根本にあるのは、欠乏感です。
「期待は裏切られるもの」という、心理学の格言があります。
いやですねぇ…そんなこと言われても泣
けれど、それは本当に真実だな、としみじみ思うわけです。
なぜ、「期待」は裏切られるのか。
それは、上に書いたように、根源に「欠乏感」があるからと見ることができます。
たとえ、いったん満たされたとしても、「欠乏感」は外から満たされることはないため、相手により高い「期待」をしてしまうものです。
この心理は、たとえば「この人は大丈夫だろう」と信じようとしたパートナーの、粗や欠点を探しに行ってしまう心理と、似ているのかもしれません。
それを見つけて、「あぁ、やっぱりこの人も、そうだった」と、どこか安心するような。
「期待」とは、相手を使って自分を満たそうとする試みであり、それがゆえに、完全に満たされることはありません。
これが、「期待は裏切られるもの」の法則の、真意でしょうか。
2種類の自立について
さて、先ほど「自立」に移行すると、「期待」を持つようになると書きました。
ここをもう少し補足させてください。
「自立」のなかにも、2種類の「自立」があります。
「自立の依存」と、「自立の自立」という2種類です。
「自立の依存」
一見、「自立」しているように見えるけれども、背後に依存心を隠している状態です。
これは、自分で決めていくという軸があるように見えて、その実は他人に振り回される他人軸といえます。
そして、他人に振り回されるのが嫌で、相手をコントロールしようとしたがるのも、「自立の依存」の特徴です。
自分の足で立っているように見えて、実はバリバリの相手ありきの態度なわけです。
「期待」は、この「自立の依存」の状態によく起こる心理と言えます。
「自立の自立」
一方で、「自立の自立」と呼ばれる状態は、そうした依存心をも抑圧した状態です。
多くの場合、「怒り」によって、そうした感情を抑圧していくため、感情がマヒしていきます。
自立に振れ過ぎた男性が、感情を感じるのは「怒り」か「性欲」かのいずれかしかない、とも言われます。
思い当たる節があり過ぎる、私であります笑
感情を切っていくわけですが、依存心などの嫌な感情だけを切ることはできません。
その反対にある、つながりや喜び、うれしさや楽しさといった感情も同時に、切れてしまいます。
そうしたことを繰り返していくと、無気力、無感動になっていきます。
まるでロボットのように、灰色の世界を毎日徘徊しているような、そんな状態になります。
これを「デッドゾーン」と呼んだりもします。
しかし、陰極まれば陽となる、という言葉があるように、この「デッドゾーン」は生まれ変わりのチャンスでもあります。
「デッドゾーン」については、また回をあらためてくわしく書いてみたいと思います。
3.カギは、自分の感情
自分の感情と向き合う恩恵
さて、そうした「期待」ですが、できればそれを手放して楽になりたいものです。
そのためのカギは、自分の感情といえます。
「期待」の奥底には、要求があると見てきました。
では、なぜその要求が生まれてきたのでしょうか。
そこと、向き合っていくことは、とても勇気の要ることです。
だって、それを見るのが嫌だから、心の奥底にしまい込んできたのでしょうから。
そして、「そんなもの、ないですよ?」というふりをずっと続けて、「自立」してきた。
いわば、パンドラの函なわけです。
それがあること自体、自立的な人にとっては、ゆるせないし、ありえない。
パンドラの函は、それを開けると世界のあらゆる厄災が飛び出すそうです。
けれども、最後に残っていたのは、「希望」であったとも聞きます。
「依存」の時代の、古い悲しみや痛み。
あるいは、見捨てられた、かまってもらえなかった、という寂しさ。
そうした気持ちを認め、「そうだったよね」と自分自身とコミュニケーションすることは、大きな恩恵を与えてくれます。
欠乏感を埋めるもの
実のところ、「欠乏感」には現実がどうかは、関係がありません。
自分が望んだ現実になれば、「欠乏感」がなくなるかといえば、そうでもありません。
別の形で、また要求が出てきます。
ほんとうに自分が必要としていたのは、自分が考えているものでは、なかったりします。
それは、要求が満たされなくて傷ついたことへの共感かもしれませんし、どうあっても見守ってくれるという視線かもしれません。
そうしたものを自分が認識すると、不思議と満たされていくことがあります。
すると、望んでいた現実が手に入らなかったとしても、そこに拗ねることなく、誰かに八つ当たりしたり、コントロールしたりすることが、少なくなっていきます。
自分の気持ちとともに、在る。
そのことの安心感は、私たちを満たしていきます。
そうしていくと、「期待」ではなく「信頼」を、周りの人に送ることができるようになります。
「期待は裏切られるが、信頼は裏切られない」
これもまた、心理学でよく言われることです。
自分自身と向き合い、現実を見据えた上で、未来を見ること。
それを、「信頼」と呼ぶのでしょう。
誰でも、「期待」はしてしまうのです。
しかし、「期待しちゃっているな」と気付いたときには、今日書いてきたような心理を思い出していただければ、幸いです。
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