大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「主導権争い」に気づいたときは、それを問題として捉えるよりも、「よくここまできたよね」と自分をねぎらう視点が大切。

「自立」していくと、どうしても自分のやり方や正しさで、周りと衝突することが増えます。

「主導権争い」と呼ばれる心理ですが、それを問題として捉えるよりも、「よくここまできたよね」と自分自身をねぎらう視点をお伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.主導権争いは、自分のニーズを満たすために人に要求すること

主導権争いでは、相手が私たちを幸せにしてくれるはずだと思いこみ、自分が受けとるものの源泉を相手のなかに求めてしまいます。

そこで自分のやり方でニーズを満たそうとして相手と争うのです。

でもパートナーと争うことは、自分の人生の進歩を遅らせることにほかなりません。

次の一歩を踏みだしさえすれば、あなたのニーズもパートナーのニーズも満たされるのです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.405

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2.「主導権争い」の心理

今日のテーマは、「主導権争い」でしょうか。

「自立」のステージに頻出する「主導権争い」について、少し深掘りしてみたいと思います。

「自立」の裏側にある「私を満たしてよ」という要求

私たちの心の成長プロセスは、自分では何もできない「依存」の状態からはじまります。

生まれたばかりの赤ちゃんがそうですし、小学校に入学したとき、あるいは新しい部署に異動したときなども、同じですよね。

すべて、誰かに何でもしてもらいたい、という「依存」の状態がスタートです。

しかし、この状態は自分の要求が満たしてもらえるかどうかは、相手次第になります。

言い換えると、主導権がない状態といえます。

どれだけ泣き叫んでも、ミルクを与えてもらえるかどうかは、相手次第。

あるいは、新しく配属された部署で、周りの人にめっちゃ気を遣いながら、分からないことを質問するような、そんな感じです。

そうして常に相手に振り回されるのは辛いので、私たちは自分で何でもやろうとします。

「依存」から「自立」へとプロセスを経ていくわけです。

「自立」のステージに入ると、他人に頼らず、何でも自分の力でやることを覚えていくことができます。

しかし「自立」したとしても、「依存」の時代に抱いていた「私を満たしてほしい」という要求は、なくなるわけではありません。

ここがポイントですね。

「依存」時代の要求は、「自立」の時代になると、「こうなったらいいな」「こうでないといいな」と心のなかでひそかに「期待」するようになります。

そして、その「期待」を叶えるために、ルールをつくるわけです。

このルールは、「依存」時代に傷ついた裏返しです。

自分を守るため、二度と傷つかないように、「こうするべき」「こうしないといけない」といったルールをつくるわけです。

このルールは、人によって異なります。

それぞれの持つルール同士がぶつかるのが、今日のテーマの「主導権争い」になります。

はい、だいぶ前置きが長くなりました笑

自分の幸せを相手のなかに求める心理

ルールとは、正しさ、観念、思い込み、ビリーフなどとも言い換えられます。

そのルールを守ってさえいれば、傷つかないし、自分を満たしてもらえる。

「自立」の状態にいると、そんなふうに感じるものです。

しかし繰り返しになりますが、その裏側にあるのは、「私を満たしてほしい」という要求です。

それは言い換えると、自分の満足感や幸せを、相手のなかに求めてしまう心理ともいえます。

主導権争いでは、相手が私たちを幸せにしてくれるはずだと思いこみ、自分が受けとるものの源泉を相手のなかに求めてしまいます。

そこで自分のやり方でニーズを満たそうとして相手と争うのです。

はい、めっちゃありますよね…

私も、さんざんよくやってきました。

「自立」している人は、自分で自分を満たすことができ、相手がどうこうに依存していないように見えます。

けれども、ぺろりとその「自立」の仮面を取ってみると、その裏側には「私を満たしてよ」という心理が隠れています。

そしてそれは、「私の望む、私の指定する方法で、私を満たしてよ」という要求でもあります。

このニーズがぶつかりあうのが、「主導権争い」といえます。

パートナーシップが長くなってくると、よく起こる症状の一つでもあります。

どちらが主導権を握るのかを、表面的にせよ、潜在的にせよ、争ってしまうわけです。

その争いに勝った方は、ますます「自立」することで罪悪感を抱え、その逆に破れた方は「依存」に叩き落されて、無力感を覚えるようになります。

そうすると、パートナーシップが硬直化して、死んだようになってしまうことになります。

3.ようこそ、「主導権争い」へ

さて、そんなネガティブな面ばかりを書いていると、「主導権争いはイケナイものだ、争ってはいけない」と思われるかもしれません。

もちろん最終的には、「主導権争い」は手放すべきものです。

けれど、「主導権争い」それ自体が「いけないもの」「悪いもの」としてとらえなくてもいいと私は思うのです。

先に、「依存」から「自立」へいたる、心の成長プロセスについてお伝えしました。

私たちの心は、「依存」から「自立」を経て、そして「相互依存」にいたります。

「相互依存」は、自分でできることは自分でして、自分でできないことは他人に頼る、という、win-winの関係ともいえるステージですね。

しかし、いきなりそこにいたることができるわけではなく、私たちは「依存」「自立」を通って、ようやくそこにいたります。

「依存」の痛みも、「自立」の孤独も、誰も通る道といえます。

そうであるならば、「主導権争い」もまた、プロセスの一部に過ぎません。

決して、それ自体が悪いものでも、いけないものでもありません。

逆にいえば、「主導権争いをするほどに、関係性が深まった」と見ることもできます。

そういった意味では、「ようこそ、主導権争いへ」ともいえるのでしょう。

あまり、ウェルカムではないかもしれませんが笑

それは単に、「いままでと同じやり方では、進めないよ」ということを教えてくれているだけなのです。

そして、まずは「よく、ここまで(主導権争いをするところまで)来ることができましね」と、自分をねぎらうのが先でいいのだと思います。

だって、必死に自分の力で、自分のやり方を貫くという「自立」のステージで、がんばってきたのですから。

だから、「主導権争い」に気づいたときは、それをしてしまう自分を責めるのではなく、「よくここまでがんばってきたなぁ」と、自分を愛でてほしいのです。

これは、「主導権争い」に限った話ではなく、心理学におけるどんな問題を見るときも、同じです。

問題それ自体が悪いことだと判断したり、問題を抱える自分を責めたりしなくて、いいんです。

その問題の裏側にある、あなた自身の価値や、あたなの愛を見つめることにフォーカスする方が、よほど大切なのだと私は思います。

 

今日は「主導権争い」の心理について、考えてみました。

どんな問題も、それ自体が悪いものでもなく、その裏側にある価値を見つめること。

それは、私のカウンセリングのスタンスでもあります。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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