夏休みに入る前、息子が学校からメダカをもらってきました。
1学期、クラスで飼っていたのだそうですが、夏休みになるとお世話ができないので、希望者が持って帰らせてくれたようです。
思い出してみると、私の小学校時代は、メダカや金魚を飼っていたことはありませんでした。
校庭の奥の小屋で、ウサギを飼っていたのは覚えているのですが、夏休みに餌やり当番みたいなのがあったような気がします。
そういえば、魚類を飼うのは初めての経験かもしれません。
息子がもらってきたのは3匹でしたが、「少なくて寂しそうだから」ということで、近所のペットショップで新しい仲間を買ってきました。
しかし、そのうちの一匹の動きが鈍く、買ってきた翌日には動かなくなってしまいました。
残念そうに、息子はその動かなくなったメダカを、見つめていました。
夕暮れ時、そのメダカを埋葬しに、近所の公園へと歩きました。
「どうして、死んじゃうんだろうな」
そう呟きながら、息子はオレンジ色に染まりかけの道を歩いていました。
それは、そのメダカの死因というよりは、なぜ死というものがあるのか、という問いかけのようでした。
「なんでだろうな」
ぼんやりと、私は答えます。
私が、死というものを意識したのは、いつごろだったのか。
そんなことに、思いをめぐらせていました。
父方の祖母が亡くなったときは、小さすぎてあまり記憶がないですし、そうなるとやはり飼っていた小鳥が死んでしまったときだったのでしょうか。
「なんでだろうな」
私が繰り返し呟くのを、息子はもう聞いてはいないようでした。
公園では、蝉がにぎやかに鳴いていました。
隅っこの方の木の根元に、小さな穴を掘り。
持っていた魚の餌と一緒に、埋葬しました。
手を合わせ、しばらく祈りを捧げます。
変わらず、蝉の声はびっしりとあたりに響いていました。
傾いた太陽が、帰り道を橙色に染めていきました。
埋葬の最中に、私も息子も蚊に刺されて、腕や首を掻きながらの帰り道でした。
「なんでだろうな」
もうそんな問いを発したことを忘れている息子の横で、私はまだその呟きの続きが、分からずにいました。