道を歩いていると、燃えるような晩秋の色に出会う。
小雪から大雪に入り、もう完全に秋から冬へと移りつつあるが、最後に一番燃え上がるのかもしれない。
淡い色をした冬の青空と、赤い色の対比が美しい。
透き通った秋の空から、いつの間にかこの淡い色へと移り変わっていた。
命の息吹が途絶える冬を前に、燃え盛るような赤。
そんな週末の日、息子と近所の公園にプラスチックのケースを抱えて行く。
飼育ケースには、夏の終わりに力尽きたカブトムシがそのまま入っている。
昨年の夏から、幼虫から育ててきたカブトムシ。
サナギ、羽化を経て成虫になったが、夏の終わりとともに力尽きて動かなくなった。
それ以来、それまで飼っていた昆虫たちと同様に、埋葬しに行こうと何度か息子に声をかけてきたが、何やらかんやら理由を付けて、なかなか息子の腰は上がらないままだった。
亡くなったカブトムシがかわいそうで、早く埋葬してやりたいという気持ちと、
息子の範疇なのだから、息子に任せるべきだという気持ちと、
私は相反する気持ちを抱えたまま、気付けば秋を通り過ぎようとしていた。
「早く埋めないと、腐ってしまうよ」
「ずっとそのままにしておくのは、かわいそうだよ」
「もうおとうが埋めてくるぞ」
などなど、さまざまな「正しさ」、もっともらしい「理由」をつけてアプローチするが、なかなか息子は埋葬について来ようとしなかった。
芋虫のような幼虫から育てた可愛い子の死を、受け入れるのには時間がかかるのかもしれない。
そんなことを、時折考える。
私も、両親の死を受け入れるのに15年もの時間がかかったのだ。
いや、まだ受け入れている最中なのかもしれない。
それは、誰か他人がどうこう言って受け入れるようなものでもない。
本人の意思というよりは、タイミングか何かに、呼ばれるようなものなのだろう。
それが、息子にとっては今日だったのかもしれない。
公園の隅の木陰に、カブトムシを埋葬する。
彼が好きだったゼリーを息子は持参していて、一緒に埋めた。
手を合わせて、埋葬が遅れたことを詫びて、祈った。
空のケースを抱えた帰り道、息子に聞いてみた。
「なんで、いままでカブトを埋めるのイヤだったの?」
「うーん、わかんない」
そうか、そうだよな、わかんないよな。
まして、なぜ今日埋めようと思ったのかなんて、わかんないよな。
それで、いいんだよな。
わからなくても、時はいつか満ちるものだよな、と思った。
川沿いの木にわずかに残る葉は、やはり燃えるように赤かった。