世界は自分自身の投影であり、見方ひとつでその姿を変えます。
それは真実だけれども。
どうしようもなく悲しいできごと、しんどいとき、辛いことが起こることが、時にはあります。
そうしたときに、めいっぱい悲しんだり、落ち込んだりすることは、とても大切なことだと思うのです。
辛い。悲しい。寂しい。悔しい。
あるいは、心の震えであったり、魂の叫びであったり。
そうしたときに、私はいつも言葉を探していました。
いまの自分を包み込み、癒し、鼓舞することのできる言葉を。
これからの自分の道を照らす、灯りのような言葉を。
それは、自分を探すことと、同じことなのかもしれません。
自分というのは、ほんとうに分からないものです。
いや、周りの人にとっては、明らかなことなのかもしれませんが。
自分にとって自分自身というのは、ほんとうに摩訶不思議な存在でもあります。
それも、さもありなん、とも思うのです。
自分が頼んだわけでもないのに、与えられた身体。
自分が意識していないのに、その身体は今日も呼吸をやめないし、左胸は鼓動を続けます。
自分であって、自分でないような。
そんな存在が、自分自身なのかもしれません。
それはどこか、与えられる権利に、義務がくっついてくること似ている気がします。
この身体は、この私という存在は、私のものであって、私のものではない。
けれども、たとえそうだとしても。
この辛さやしんどさ、胸をはりさくような悲しみは、どこへも行かないのです。
だから、それを癒すことのできる言葉を、いつも探していました。
自分自身が、分からない。
それを知りたくて、私たちはいろんな旅をします。
その旅で、何を見つけるのかは、それは人それぞれなのでしょう。
安心感のあるパートナー。
誇れる自分。
誰かを手助けできる財力。
両の手に余るくらいの大きな夢。
それは、自分自身が思ってもいなかったものかもしれません。
ほんとうにほしかったものは、当初描いていたものとは、違うものかもしれません。
私は、言葉を探していたように思います。
そして、その旅のなかで出会った言葉は、いつも私のそばにいてくれるのです。
ただただ、自分を信じてください。
自分の生きてきた道を信じ、出会った人たちを信じ、そして未来を信じるのです。
私自身に与えられたそんな言葉たちを、私も与えていきたいと思うのです。