自分が「犠牲」していることに気づいたとしても、何か悪いことをした、自分は間違っていた、と思わなくていいんです。
それよりも、「犠牲」してまで与えたかった、愛したかった、という想いに目を向けてほしいのです。
1.「犠牲」の心理と喪失感
昨日の記事では、「犠牲」の心理と喪失感というテーマでお伝えしました。
「犠牲」の心理と、その奥底にある喪失感について。 - 大嵜直人のブログ
私も大好きなテーマである、「犠牲」ですね笑
「犠牲」とは、自分ではない誰かのために、自分が幸せではない行動を取ってしまうことを指します。
「自分が」・「幸せではない」というのがポイントで、傍から見れば立派で素晴らしい行動であったとしても、「犠牲」からの行動は、自分がしんどくなるばかりです。
同じ行動であっても、している本人が幸せを感じられたり、充実感や喜びがあるならば、それは「犠牲」ではありません。
たとえば、ちょうどいま、春の甲子園のシーズンですが、野球に「犠牲バント」なんて言葉がありますよね。
自分がアウト(犠牲)になることで、ランナーを進めて点を取りやすくする、というプレーです。
「犠牲バント」が成功した選手は、それが成功したら、充実感や喜びを感じることでしょう。
それだけ、チームの勝利のために貢献できているわけですから。
これは、「犠牲」の心理ではありません(ややこしいですが笑)
そうではなく、「しかたないから」「そうしないといけないから」「自分しかやる人がいないから」といった心理からする行動は、自分が幸せを感じられないので、「犠牲」であるといえます。
たとえその行動の結果、周りから称賛されたり、感謝されたりしたとしても、それを受けとれないものです。
昨日の記事では、そんな「犠牲」の心理を見ていくとともに、その根底には無価値感があり、そしてその奥には何らかの「喪失感」がある、とお伝えしました。
なにがしかの大切なものをなくした経験が癒えていないと、自分には何の価値もない、という無価値感を抱きやすくなります。
その無価値感を打ち消すために、「犠牲」的な行動をしやすくなる、という心理でした。
2.そんなに「犠牲」は悪いことか?
そんな「犠牲」の心理ですが、その見方について、少し考えてみたいと思います。
「犠牲」をしているからダメとか、「犠牲」は悪である、という見方だけをしていると、自己否定につながりやすいからです。
もちろん、昨日の記事でも見てきた通り、「犠牲」をしていると、自分自身がしんどくなります。
心身ともに疲弊しますし、その状態だと、幸せを感じることもなかなか難しくなります。
しかし、だからといって、「犠牲は悪いことだ」と考えたり、まして「犠牲をしてきた自分は間違っていた」と見ることは、あまりおすすめしません。
これ、ほんとうによくあるパターンですし、私自身もさんざん、この落とし穴にはまってきました笑
「犠牲」という心理。
それ自体は、ニュートラルです。
ただ、そういう心理があり、それゆえに、ハードワークしたり、自分を後回しにしたり、誰かを優先してしまっていた、という行動が生まれた。
ただ、それだけです。
そこに、正誤善悪の判断は、必要無いように思うのです。
「犠牲」は悪であり、そこからくる行動も間違っている。
そう見てしまうことは、ある意味で簡単で、楽です。
あなたは白、わたしは黒。
あなたは正しい、わたしは間違っている。
犠牲は誤り、愛からの行動は正しい。
そうして、白黒はっきりさせると、なんかスッキリしますよね。
アクション映画のように、主人公と悪役がはっきりしていると、分かりやすい感じでしょうか笑
でも、心の世界って、そうやって簡単に白黒つけられるものって、ほとんどないように思うのです。
白寄りの灰色、黒寄りのグレー。
そんな、グラデーションが広がっているのが、心の世界ではないでしょうか。
そして何より、「犠牲が悪だ」としてしまえば、いままで犠牲から行動してきた自分を、自分自身が否定してしまうことになります。
これが、一番怖いことなんですよね。
「犠牲」からのしんどい行動をやめることができても、そのかわりに、いままでの自分を責めることになってしまったら…
自分がしんどいことは、変わらないですもんね。
3.「犠牲」してまで与えようとした愛に目を向ける
以前に、こんな記事を書きました。
カウンセリング・マインドを、届けたい。 - 大嵜直人のブログ
私がここで、こうして心理学のあれやこれやをお伝えしていることの、根底に持っている想いです。
そのなかの一つに、「心理学を自分責めに使わない」というものがあります。
いろんな自分のしんどさを、心理学で説明できると感じると、誰もがこう思ってしまうんですよね。
「犠牲」しているから、ダメ。
「癒着」しているから、よくない。
「自己肯定感が低い」のは、悪いこと。
「罪悪感」があるから、うまくいかない。
…そんな風に、思ってしまうんです。
けれど、それって、新たな自分責めですよね(某ひろゆきの決め台詞みたいですね笑)
そうじゃないんですよね。
そんな風に、自分を責めるために、心理学は使うものではないと思うのです。
そうじゃないんです。
むしろ、その逆です。
「犠牲」するほどに、自分の身を挺してまで、誰かに与えようとできること。
「癒着」できるほどに、誰かに近づけること。
「自己肯定感が低い」ままでいることで、誰かを愛そうとしてきたこと。
「罪悪感」を抱くほどに、持っている愛の総量が大きいこと。
そちらに目を向けることが、「犠牲」の心理を知るなかで、最も大切なことではないでしょうか。
あなたが、これまで「犠牲」をさんざんしてきたとして。
それは、あなたにとってしんどいことであったかもしれません。
けれど、それは悪いことでも、間違っていることでも、ありません。
ただ、自分の身を粉にしてまで、与えようとしてきたのかもしれません。
そうすることでしか、愛を伝えられなかったのかもしれません。
いずれにしたって、それは誰かに与えよう、大切な人を愛そうとしてきたことではないでしょうか。
そうすると、「犠牲」をしてきた自分は、全く責める必要もないと思うのです。
むしろ、
「よく、ここまで歩いて来られましたよね」
「よく、そこまで自分を犠牲にしてまで、与えてこられましたよね」
そんな言葉を、かけてあげたくなりませんか。
もし、自分が「犠牲」していることに気づいたら、そんな言葉をかけてみては、いかがでしょうか。
そうした見方を、そんな言葉を、私はここで、そしてカウンセリングのなかで、お伝えしていきたいと思っています。
今日は、「犠牲」の心理の見方、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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