愛情表現や愛し方は、人それぞれに異なるものです。
「一人になる」「孤独を選ぶ」という、一見するとそうは見えない行為や行動であっても、その根底には愛があったのではないか、という見方をお伝えします。
1.十人十色の愛情表現
「愛する」とは、何ぞや?
今日のテーマは、「愛し方」という普遍的なテーマですが、少しわかりづらいかもしれません。
カウンセリングのなかでも、時おり話が出てくるのですが、なかなか伝わらないことが多いテーマでもあります。
「???」という反応をされる方が、多いんです。
それだけ、私の伝え方が拙いのかもしれませんので、今日は少しそれを掘り下げてみたいと思います。
ちなみに、私自身が非常にその傾向が強いので、自己弁護のようになってしまうかもしれません笑
さて、前置きが長くなりました。
「愛する」とは、どういうことでしょうか。
どんな行為を指すのでしょうか。
私たち一人一人の価値観や考え方が違うように、十人いれば、十通りの愛し方、愛情表現があるものです。
「愛している」と言葉で伝える。
花束や甘いものをプレゼントする。
その人の健やかを祈る。
連絡をまめにする。
…いろんな愛し方、愛情表現があるものです。
「どんなときに、自分は愛されていると感じるか?」
「愛を伝えたいと思ったとき、自分はどんな行動、表現を取るか?」
を考えたり、リストアップしてみることは、自分自身を知るのに、非常に大きな意味を持ちます。
愛し方、愛情表現というのは、その人のアイデンティティの根源に強くかかわるものだからです。
「愛することリスト」のルーツと、その鎖
さて、そうしてできたリストは、いわばあなた自身の「愛する方法」のリストになります。
そこで考えてみたいのは、なぜ、その行為や表現を「愛すること」としたのだろうか、ということです。
いろんな要素があると思います。
親から愛された方法だったから。
大好きだった先生が、そうした愛し方で接してくれたから。
あるいは、自分がそうしてほしいと感じているから。
いろんな理由があるかと思います。
そこでリストアップしてあげた「愛すること」「愛情表現の方法」。
そこには、あなた自身の愛の物語があります。
あなたがそこに愛を感じるのは、あなたがそうして愛されてきた証であり、またそのようにして愛してきたしるしなのだと思うのです。
しかし、ものごとの光の裏側には、陰があります。
そのリストは尊い愛のリストであると同時に、自分自身を縛る鎖にもなり得ます。
なぜか。
それは、そのリスト以外の方法を、「そんなものは愛ではない」とはねのけてしまうかもしれないからです。
体調を崩したときに、甲斐甲斐しく介抱して、ご飯をつくってあげることが愛だと思っている人は、「身体もしんどいだろうし、そっとしておいてあげよう」という愛の表現を理解できないことがあります。
パートナーシップでは、これが如実に出て、すれ違いの原因になったりもします。
その「愛のリスト」は素晴らしいものだけれども、それだけが愛の表現方法、愛し方ではない、というのは、覚えておきたい点です。
2.「孤独を選ぶ」という愛の表現
距離を置くことは、愛することになるのか?
人は、自分自身にとっての愛し方、愛情表現を学んでいきます。
そして、パートナーシップや人間関係のなかで、相手の欲する愛情表現や愛し方を学ぶわけです。
言ってみれば、愛情表現、愛し方というのは、百万通り、一千万通り、いえ、無限の表現方法があるといえます。
もちろん、そのなかで自分が欲する愛し方と、そうでないものは区別をしてもいいのでしょう。
けれども、愛情表現や愛し方ととらえられるレンジが広がると、よりたくさんの愛を受けとることができるのは、間違いのないことだと思います。
さて、そうしたなかで、一つ考えてみたいのは「一人になる」「孤独を選ぶ」という、愛し方についてです。
一見すると、意味不明ですよね笑
愛する、愛情を表現するというのは、大切な人と距離を縮めるものです。
そして、自分との関係が深くなるほど、許容できる物理的な距離が縮まっていくものです。
それなのに、「孤独を選ぶ」「一人になる」という愛し方があるとは、どういうことか?
そこには、いろんな理由や問題があると思います。
けれども、私がそこで考えたいのは、「そのようにしか、愛せなかったのではないか」という点です。
問題と見るのか、愛と見るのか
孤独になったり、誰かと距離を置いたりすることは、何らかの問題があると見ることもできます。
代表的なものとしては、「自分を汚れたものとして扱ってしまう罪悪感」や、「親密感への怖れ」、あるいは「自分自身を嫌っているがゆえに、それを大切な人に投影してしまう」といった見方もあるでしょう。
それらは、罪悪感であったり、怖れであったり、あるいは自己否定の投影であったり、何らかの問題として語られることの多いものです。
もちろん、それを癒していくためのアプローチというのも、存在します。
けれども、今日お伝えしたいのは、「そのようにしか、愛することしかできなかった」という見方です。
それは言い換えると、「それでも、愛してきた」ともいえます。
愛する人が大きく世界を広げるとき、すっとその身を引く人がいます。
大切な人たちが楽しそうにしていると、そっとその場を離れてしまう人がいます。
大事な人たちだけにしてあげようと、孤独を選ぶ人がいます。
そうした人たちは、問題を抱えているから、そうしているのでしょうか。
そう見ることもできるかもしれませんが、私はこう見たいんですよね。
「自分の身を引いてまで、相手を愛そうとしてきた」
一人になる、孤独を選ぶ。
それを、一つの尊い愛し方と見ることは、できないでしょうか。
3.自らの愛を、傷つけないために
私がそう考えるのは、どんな表現方法、あるいは行為であれ、その人が愛してきたことを、否定してほしくないな、という想いからです。
先ほども書いたように、愛し方には無限の方法があります。
そこに、正誤善悪も、優劣もないように思うのです。
ただ、愛したかった。
愛し方が、一人を選ぶしかなかった。
もちろん、その愛し方で、自分自身が傷ついたかもしれません。
あるいは、相手もまた「なんでいつも一人になろうとするの(怒)」と傷ついたかもしれません。
けれどもそれが、そのときのその人にできる、精一杯の愛し方だとしたら。
それを問題だと言ったり、否定することは、私にはできません。
ただ、「そこまでして、愛したかったんですね」とお伝えするだけです。
もちろん、その愛し方が辛ければ、別の方法を選ぶこともできます。
もしも、別の方法を選びたいと思われるのであれば、私はそれを全力で応援したいと思っています。
一人になる、孤独を選ぶ。
そうした愛し方、愛の表現の仕方も、あるのではないかと思うのです。
自分自身の愛してきた道を、自分で傷つけないために。
そんな見方をすることも、必要ではないかと思います。
今日は、愛の表現の仕方、そして愛し方について、考えてみました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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