大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

愛するとは、愛とは、なんぞや?

「愛する」とは、「愛」とは、どんなことでしょうか。

哲学的なテーマですが、それを考えてみたいと思います。

自分の愛し方、それから「愛情」と「愛」の違いについて考えてみたいと思います。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.愛が癒すことのできない痛みや問題はない

愛には、つながる力、援助する力、世界を癒す力があります。

 

愛はへだたりに橋を架け、すべての問題に橋を架けて、はなれてしまった人とのあいだにつながりを生みだします。

愛は空隙をうめることができます。

なぜなら愛のうしろには、宇宙の力、奇跡の力があるからです。

 

今日、あなたの愛を与えてください。

するとまわりの世界が癒されるでしょう。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.115

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2.愛するとは、なんぞや?

今日のテーマは、ずばり「愛」でしょうか。

何千年もの昔から、人は愛について語り、議論し、悩み、表現してきました。

心理学といよりは、哲学、あるいは宗教の領域のようにも思います。

そう考えると、「私なんぞが…」という無価値感が、ムクムクと顔を出すようで笑。

しかし書き出してしまった手前、頑張って最後まで書いてみようと思います。

「愛する」とは、どんなことだろう?

これを読んでくださる皆さんに、伺ってみたいと思います。

「愛する」とは、どんな行為でしょうか

どんなときに、「自分は愛せている」と感じますでしょうか。

その逆に、どんなときに、「愛されている」と感じるでしょうか。

もちろん正解も模範解答も、何も無い問いです。

百人いれば、百人なりの「愛する」形があるのでしょう。

どんなことが、思い浮かぶでしょうか。

……

………

体調を崩したときに、看病してくれる、という愛し方もあるでしょう。

ただただ、傍にいる、という愛し方もあるでしょう。

毎日、家族のためにご飯をつくる、という愛し方もあるでしょう。

一生懸命に働いて、稼いでくる、という愛し方もあるでしょう。

みなさんは、どんな愛し方が、思い浮かびますでしょうか。

ちなみに私は、その人が喜ぶものをプレゼントする、という表現方法が思い浮かびました。

まあ、自立大好き、与えたい好きの私らしいというか、形にこだわる、男性らしいというか笑

そして、「忘れない」というフレーズも、思い浮かびました。

目の前にはいない誰かのことを、忘れないでいる。

それが、「愛する」ことの表現の一つとして、思い浮かびました。

なぜ、それを「愛する」と定義したのだろう?

もちろん、どの愛し方が正解とか、優れているとかは、ありません。

その人なりの「愛し方」があるだけだと、思います。

しかし、その上で、少し考えていただきたいことがあります。

なぜ、その方法を「愛する」と定義したのでしょうか。

「愛してる、と言葉で伝えることが、愛することだ」と思っておられる方。

「日常からスキンシップがあることが、愛すること」と考える方。

「子どもを塾に送り迎えすることが、愛すること」とする方。

いろんな愛し方があるかと思いますが、なぜ、それを「愛すること」と感じたり、それをしてあげようとしたりするのでしょうか。

同じことをしても、何も感じない人も、世の中にはいるかもしれません。

けれども、それを「愛すること」と感じるのであれば。

そこに、何がしかの愛のストーリーが、あると思います。

多くの場合は、親との関係が影響するのでしょうが、祖父母や、面倒を見てくれた先生、近所の方々、あるいは友だちとの関係などから、私たちはそれを学びます。

何を「愛する」と感じるかは、その人のアイデンティティにかかわっているように思います。

さて、皆さんは、なぜその表現を「愛する」行為だと感じるのでしょうか。

少し、ゆっくり考えてみる価値のあるテーマだと思います。

その定義は、自分を縛ってしまう鎖になることもある

その定義のルーツを知ることは、自分を構成するピースのかたちを、知ることのようです。

「わたしは、こうやって人を愛する」

「わたしは、こうされると愛されていると感じる」

それを知ることは、自分を愛することの一歩目ともいえるでしょう。

さて、そうして自分の「愛し方」を知ることは、もう一つの見方を教えてくれます。

すなわち、「私は」それを「愛する」ことだと思うけれども、「他人は」そう感じるかどうかは分からない、という視点です。

多くの場合、私たちはパートナーシップで、「愛し方」の相違に悩み、苦しみ、時に絶望します。

自分っがほしい愛のかたちと、相手が与えてくれる愛のかたちが、アンマッチになるんですよね。

自分の中の「愛のストーリー」が、強固であればあるほど、相手の「愛のストーリー」は受け入れ難くなります。

「これ以外は、愛ではない。異論は認めない」というように。

はい、誰もが通る道ですよねぇ…笑

上で考えてみた「自分の愛し方」の定義は、気づかぬうちに「愛情のチェックリスト」に変わってしまうものです。

そのチェックリストに入っていないと、愛されているとは認めない、というように。

「愛し方」というのは、その人にとって最も根幹的なアイデンティティであるがゆえに、そのチェックリストの作成は、無意識に行ってしまうのものです。

さきほど考えていただいた、「愛し方」のリスト。

それをながめていただいて、それ以外にも「愛し方」はあるかもしれない、と考えることは、私たちが受けとる愛を、大きく広げてくれます。

その定義以外にも、愛し方はたくさんあるものです。

それを考えることは、私たちを大きく成長させてくれます。

「あぁ、これはあの人の愛情表現なのかもしない」というように。

それを考えるだけでも、無用な「愛し方のすれ違い」を、避けられることもあるかもしれません。

3.不完全な人間の、完全なる愛

「愛情」と「愛」の違いについて

さて、これまで「愛すること」に寄せて、書いてきました。

しかし、今日の引用文では、「『愛』とは」という書き方をしています。

ここが、結構キモのように感じるのですね。

いつからかですが、私のこのブログでは、「愛情」と「愛」という語を区別して使うようになりました。

あ、ここからのお話は、心理学でいわれていることでもなんでもなく、私の個人的な考えですので、どうぞ気楽に聞いてくださいね。

「愛情」とは、「情」の文字が入っている通り、とても人間的な心の動き、と私は考えています。

もちろん、人を愛することもそうですし、嫉妬や犠牲、罪悪感といった、そうしたネガティブと思われる感情も含めて、「愛情」なのではないかと考えています。

100%の愛情とかは難しいでしょうし、いろんな感情がまだら模様のようにあるのが、人間らしさと言えるのだと思います。

それに対して、「愛」とは、完全なるもののイメージがあります。

どんな問題や痛み、あるいは傷の奥底にも、源泉かけ流しのような、あたたかな場所があります。

それは、「愛」としかいえないような。

カウンセリングなんかでも、そこに触れられる瞬間が、時にあったりします。

「愛」とは、完全で、何も失われず、何も足りないものもない。

どこかそれは、「神さま」「仏様」「お天道様」「魂」「大いなる存在」といった言葉に抱くイメージと、近いように私は感じます。

路傍の一輪の花にも、「愛」が宿りますし、大きく見ればこの星そのものが、一つの

「愛」のようにも見えるでしょう。

お釈迦様が、涅槃経のなかで「一切衆生悉有仏性(すべての生きとし生けるものは、すべて仏性=仏になる、悟りを開く可能性をもっている)」と説かれたと聞きますが、それに近いようにも感じます。

そんなふうに、私はこのブログで「愛情」と「愛」の違いを、書き分けていたりします。

まあ、こう書いていくと、ほんとうに心理「学」というよりは、個人の「感想文」になってしまうのが、困りものです笑

しかし、今日の引用文にある通り、「愛」とは偉大な力を持ち、人を人たらしめている奇跡の力です。

カウンセラーにとって、「愛」をどうとらえるか?というのは、たとえば経営者にとっての経営哲学と似ているのかもしれません。

何をするのか、というところが、どうしても表に出ますが、やはりたいせつなのは根っこの「どう在るか」「どう愛するか」という部分のように思うのです。

不完全な人間が、完全なる愛を感じられる不思議

しかし、不思議なのは、不完全な私たち人間が、そうした完全なる「愛」を感じることができる、ということです。

これも、「不完全な人間が、どうして神の完全さを理解できるのか?」という、神学においてずっと論じられてきた問題に似ているのかもしれません。

どうして、と言われても、感じられるから。

としか、言いようがないのかもしれません。

誰もが、愛、あるいは霊性や神性としかいいようのない体験を、されたことがあるのではないでしょうか。

それは、芸術の極みのなかにいる時間かもしれません。

真っ暗な絶望の中、手を差し伸べる光明を見る瞬間かもしれません。

愛する人と交じり合い、溶け合う先に、空隙を見る体験かもしれません。

不完全な人間が、愛の完全さを知っている

知っているということは、それを宿している、ということなのでしょう。

そして、知っていて、宿しているはずの「愛」を、時に私たちは「ない、ない」と探し回っていたりします。

それはどこか、神社の御神体に「鏡」が置かれていることと、似ているように感じるのです。

あなた自身が、神さまなのですよ、と。

自作自演というか、何というか。

私たちはこの世界に生まれ落ちてから、その「もともとあったもの」を探すという旅を、しているのかもしれません。

ということで、今日はまったく「心理学」っぽくない回になってしまいました笑

けれども、「愛」について考えるきっかけにしていただければ、幸いです。

最後に、今日の項目のワークを引用して、終わりにしたいと思います。

■とくにあなたの助けを求めている人がいます。

その人とすぐに会ったり、話したりできないのなら、目の前にその人がいると想像してください。

その人が見えてきたら、あなたの愛をいっぱいに降りそそいであげましょう。

あなたの愛で、その人を満たしてあげましょう。

その人がとても幸せで、癒されていて、完全な状態であるところを見てあげましょう。

何の愛の言葉を言わなかったとしても、宇宙の愛があなたを通し、助けを求めている友だちのところに運ばれていきます。

同上 p.115

さて、今日は誰にあなたの完全なる「愛」を、降り注ぎましょうか。

少し時間を取って、それを考えてみては、いかがでしょうか。

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