大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「愛」とは、時を止めることであり、永遠を生きることであり、天に柱を立てること。

「愛」とは、時を止めることであり、永遠を生きることであり、天に柱を立てることです。

それは感情の一つである「愛情」とは異なり、真の意味で人が生きるための目的であり、人が人である所以です。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.愛は時をとめる

愛によって時がとまり、永遠がはじまります。

永遠は純粋な創造性の感覚を生みだし、そこからよろこびが豊かにあふれてきます。

人生に愛があるほど、どこか別の場所へ旅をする必要がなくなります。

愛は「いま・ここ」にあるのですから、どこかほかの地へいくために頑張らなくてもよいのです。

愛は私たちに語ります。

愛は目的地にたどりつくための手段ではありません。

愛はそれじたい、つねに目的地であり、手段なのです。

十分な力に満ちて愛することができたとき、時はとまり、真の時間というものの感覚がつかめるはずです。

それは愛について学び、自分自身を癒すことなのです。

時間がとまるところ、そこは何年分もの辛苦と痛みから救われるところです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.310

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2.「愛」と「愛情」の違い

今日のテーマは「愛」です。

昨日の「幸せ」に続いて、これまでと少し違うテイストに、なかなかキーボードを打つ手が進まない私です笑

心理学というよりも、私が考える「愛」を語ることになりそうなので、抵抗があるのでしょう。

けれども、がんばって書いてみます笑

 

まず、「愛」と「愛情」についての違いを、考えてみたいと思います。

このブログでは、意図的に「愛」と「愛情」を分けて使っています。

もしかしたら、気づいておられる方も、いらっしゃるかもしれません。

「愛情」とは、文字通り「愛おしい」と感じる気持ちであり、それは感情の一部です。

当然、感情ですから、天気のように、日々移ろいゆくものです。

それは、狂おしいほどに「愛おしい」と感じるときもあれば、春の陽だまりのように穏やかに「愛おしい」と感じるときもあるのでしょう。

あるいは、心が別の感情を感じて、「愛おしい」ことを感じないときもあるのでしょう。

寂しい、苦しい、悲しい、憎らしい、ムカつく…

それがいいとか、悪いとか、そういった意味ではありません。

日々移ろい、戻らず、ただ流れていく。

それが、人の感情であり、それが自然なものです。

それをコントロールしたり、正誤善悪の判断をつけたり、あるいは何がしかのラベルを貼ったりしようとするから、おかしくなるんですよね。

それは、天気をコントロールしようとするようなものかもしれません。

そんなことができるのは、神さまくらいなのでしょう。

それはともかくとして。

「愛情」とは、感情の一部であり、その対極に「憎しみ」があります。

「愛憎」という言葉があったりしますから。

そして、「愛情」とは、「寂しさ」や「悲しさ」、「虚しさ」といった、人の抱く感情と同じ地平にあります。

だからこそ、人は愛することで悩みもするし、絶望もするし、あるいは心からの喜びを感じたりもするんですよね。

こう書くと、少し違和感を感じられるかもしれません。

「愛することって、とっても素晴らしいはずなのに、なんかそうじゃなく聞こえるみたい」、とか笑

ただ、カウンセリングなんかで、お話を伺っていると、どんな感情も美しく、また尊く感じるんですよね。

「愛情」だけが、何か特別なのではない。

「寂しさ」も、「悲しみ」も、「悔しさ」も、「申し訳なさ」も。

どんな感情も美しく、また尊い。

もちろん、だからといって、その感情ゆえに苦しかったりするのは、変わらないのですけれども。

それとは別の視点で、美しいなぁ、と感じたりもするのです。

それゆえに、「愛情」もまた感情の一部ではないかと、いまの私は考えています。

3.愛するとき、人は永遠を生きる

「愛情」とは、感情の一つである。

そうだとしたら、「愛」とは何でしょうか。

それは、何かと比較したり、並べたり、あるいは対比したりできるものではないかと思うのです。

ただ、それだけで完結して、完全であるもの。

ある意味で「愛」とは、「神さま」、「ハイアーマインド」、あるいは「悟り」といった言葉が指し示すものと、似ているのかもしれません。

だからこそ、「それが何であるか」と語ることは、非常に難しいとも言えます。

禅の世界で、「指月のたとえ」という教えがあります。

指で月を指し示しても、それを観る人は月を見ずに、指に注目してしまう、という事象を表します。

「月」とは、本当に伝えたいことや、真実の比喩です。

つまり「指月のたとえ」とは、「指」ばかりに注目していては、「月」を見ることができない、ということを教えてくれます。

「愛」について何かを語る時、その言葉は「月を指す指」であり、「愛」そのものではありえません。

そうしたことを踏まえた上で、それでも「愛」について、何であるかを書いてみたいと思います。

「愛情」とは、「愛」の「情」と書きます。

「愛情」と「愛」は違うと先に書きましたが、それは「ゾウ」と「宣伝会議」のような違いではないわけです。

「愛情」を感じるとき。

私たちは満たされ、生きる喜びを感じます。

たとえば、愛おしいパートナーと、見つめ合うとき。

ただただ、瞳を合わせるとき。

恥ずかしさも、自己嫌悪も、罪悪感も、過去のいさかいも、すべてをどこかにおいて、見つめ合うとき。

時が、止まります。

愛は、時を止める。

そこではただ、いま、ここ、しかありません。

相手の瞳の中に、自分自身を見るとき。

その自分の瞳の中に、相手を見るとき。

見つめているのは、私なのか、それとも、あなたなのか。

いまこの瞬間は、いつのことなのか。

遥か昔にもあったことなのか、それとも、未来にまた起こることなのか。

ただただ、見つめ合うとき。

その刹那を、永遠と呼びます。

永遠とは、長さの概念ではありません。

いま、この瞬間のことであり、それは一であるとともに、全でもあります。

いま、心の臓が鼓動する、この瞬間を生きながら、その永遠を生きること。

それは、天に柱を立てる、ということです。

それは人が生きる目的であり、人が人である理由です。

愛おしい人と、瞳を合わせるとき。

私たちは、「愛」を知ります。

それは時を止め、永遠を生きることでもあります。

ただ、そうした言葉が指し示すのは、ただの「月を指す指」でしかありません。

「月」は、その指の先にあります。

だから、「愛」しても何にしても、こうして「書かれたもの」で表現することは、難しいのでしょうね。

だからこそ、キリスト様やお釈迦様、孔子といった偉人は、何も書かなかったのかもしれません。

すいません、最後は少し話が逸れてしまいました。

まあ、いつものことですが笑

今日は「愛」について、書いてみました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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