朝、玄関のドアを開けると、確かに寒さが緩んでいるのを感じました。
そういえば、今日から月が替わりました。
月替わりだからそう感じるのか、それとも、確かに3月になって寒さが緩んだのか。
その、どちらでもあるような気もします。
人の感覚とは、実に曖昧なものなのかもしれません。
3月、弥生。
雨水も末候、「草木萠動(そうもくめばえいずる)」。
少しずつ暖かくなる気温に、足元の草木が芽生え、顔を出すころ。
その生命力にあふれ、さわやかなイメージとはうらはらに、どこか3月は人のこころを揺らすことがあります。
ぐらぐらと沸騰するお湯が、常温の水に冷めていくこと。
冷たい水が徐々に熱を帯び、熱い湯になること。
どちらが不安定かといえば、後者なのでしょう。
熱したお湯が冷めていくのは自然ですが、冷たい水が沸騰するのは、膨大なエネルギーが加わる分、不安定に感じます。
それは、死の静けさや完璧さと、騒々しくドロドロとした不完全な生との関係と、どこか似ているようにも思うのです。
そして、その生のぐらぐらとした不安定さを、殊更に感じるのが、この弥生の季節でもあります。
生きることで、人はいろんな記憶を積み重ねていきます。
忘れられない記憶も、楽しかった記憶も。
記憶は増えるばかりですが、季節は増えず。
春の季節の記憶は、増えるばかりのようです。
悲しみも、喜びも。
人の生においては、糾える縄のごとく絡み合っているのだとしたら。
四季には、悲しみと喜びが四等分されていくのでしょうか。
そうでもないように、思うのです。
悲しみと喜びが、四等分されないのだとしても。
総量としての、悲しみと喜びは、どうなのでしょう。
わたしと、あなた。
あの人と、この人と。
それぞれの人の生において、その総量は、同じなのでしょうか。
それとも、違うのでしょうか。
人生における喜びと悲しみは等量、という話を聞くこともあります。
けれども、私には、よく分かりません。
何をもって喜びとするか、悲しみとするか。
そんな定義もまた、曖昧なのでしょうから。
ただ、たとえ悲しみの方が多い生が、もし仮にあったとしても。
その生を、静かに見つめることができるような私でありたいと、そう願うのです。
喜びだけを感じて生きていくことが、難しいように。
悲しみだけを集め続けることもまた、難しいのかもしれません。
温かさを含んだ雨が、大地を濡らし。
草木が芽生える。
風が吹き、霞がたなびく。
花が、咲く。
今年もまた、春が、訪れるようです。