きっかけは、子ども用の携帯電話が見当たらないことでした。
最後に使った娘の記憶をたどると、どうやら習いごと用のカバンに入っているらしい。
そのカバン自体も、見当たらないとのこと。
さて、困った困ったの月曜日の朝。
事情聴取を重ねていくと、金曜日の夜に習い事が終わった後、公園で遊んでから帰ったらしい。
そこで忘れてきたか、それとも落としてきたか…
週明けの仕事の合間を縫って、最寄りの警察署に電話。
遺失物の届け出がないか、祈るように問い合わせ。
残念ながら、現時点ではそのようなカバンの届け出はないとのこと。
もし出てきた時のために、遺失物として登録を依頼。
色や形状、特徴、入っていたもの、なくなったことが分かった日時、連絡先などなど。
警察の方の手慣れた質問に答え、「お手数をおかけします」と電話を切りました。
それにしても。
何かがなくなる、ということは、なぜだかわからないのですが、私の心を惑わせます。
携帯を止める、カバンや教材を買い直すといった、金銭的・時間的な面倒さ以上に、何かが「ずきん」と心にくるのです。
そういえば以前に、遅くに帰宅したところ、息子から「ぬいぐるみがなくなったから、探してほしい」と置き手紙をもらったことがありました。
そのときも、家探しをするがごとく、夜中にもう必死になって、そのぬいぐるみを探したことを思い出します。
結局、無事にそのぬいぐるみは見つかったのですが、なぜそんなにも何かがなくなることに対して必死に抵抗するのか、自分でもよくわかりませんでした。
何かがなくなる、誰かと別れる。
それは、生きていれば仕方のないできごとなのかもしれません。
持っているものを手放してこそ、新しいものを手に入れることができる。
古今東西、執着を戒める言葉は多いものです。
それはそうなのですが、何かがなくなるというとき、私は強い痛みを感じるのです。
その痛みが、何なのかは、よくわからないのですが。
気づくと、その娘の遊んでいた公園を、地図で調べていました。
昼休みを使えば、そこに行って帰ってくるくらいの時間はとれそう。
そう考えると、もうその公園に向かっていました。
こういうときに限って、工事して渋滞する道に辟易しながら、私は車を走らせます。
金曜日に忘れていたとして、はたして週明けの月曜日まで放置されているなんてことは、あるのだろうか…
私の頭には、何度も雑念がよぎります。
それでも、できることがあるならば、しないと納得できないという想いと。
ようやく着いた公園。
平日の昼間、住宅街のなかのその公園はひっそりとしていました。
梅雨時期の蒸し暑さと、果たしてカバンがあるだろうか、という不安に、妙な息苦しさを覚えます。
娘が遊んだというブランコや鉄棒のあたりを、念入りに探してみましたが、見当たりません。
公園のなかを回って、そして外周を何周もして。
防災倉庫の脇に置かれたゴミ袋に入っていないだろうかと、見てみたり。
完全に不審者のようだなと思いながらも、それでもどこかにカバンはないだろうか、と。
しかし、どこにも見当たらずにタイムアップ。
一目散に、仕事に戻る私。
もう出てこなかったら…という不安は、空振りに終わった捜索の疲れを、一層増すようでした。
なぜ、こんなにも何かがなくなることが、イヤなのだろう。
その答えも、出ないままでした。
さて、ここまでの騒動の結末は、カバンは家のなかにあったというオチでした。
何のことはない、積まれたぬいぐるみの山の下に、隠されていました。
案の定、ケロッとしている娘。
警察署に、見つかった旨の報告をして、お手間をとらせてしまったことのお詫びをして。
とりあえずは、何事もなくてよかった。
そう思いながらも、私にとっての「何かがなくなることの痛み」の謎は、解けないままでした。
いったい、何がそうさせるのだろうかと、考えてもみましたが、結論は出るはずもなく。
ただ、今回は「娘の」カバン、というのは大きかったのかもしれません。
結局、父親にとっての娘、という存在は。
何に差し置いても、違うものです。
まあ、平たく言ってしまえば、かわいいとか、大切であるとか、そういうことなのでしょうけれども。
他のどのような関係性でもなく、特別なもののように感じます。
だからどうだ、ということもないのですが。
ただ、特別な存在なのです。