気づくと、緑の小さな芽が出ていた。
ベランダに置いたままだった、白い鉢植え。
その鉢植えは、娘が保育園を卒園した際に記念にいただいたものだ。
いっしょにいただいた何かの花の種を植えて、それは無事に花を咲かせた。
もう、2年も前の話である。
その花が枯れた後、捨てるにもしのびないので、そのまま鉢植えをベランダに置いたままにしていた。
不思議なことに、その鉢植えから、緑の芽が出てきた。
花が枯れてから、何も触っていないのに、どこからやってきたのだろう。
その芽は、以前に咲いた花とも、また違った形をしていたようだった。
せっかくやってきた来訪者なのだから、枯らさないように水をあげていた。
その芽が、何の植物かも分からない。
どんな姿に成長するかも、分からない。
「これは、何のお花なんだろうね」
不思議なその芽を面白がる娘は、その芽が花であることを疑っていないようだった。
私もそれに従い、その「花」の成長を見守ることにしていた。
芽は、すくすくと大きくなっていった。
日ごと大きくなる植物の成長は、見ているだけでも驚くべきものだ。
2週間くらい経っただろうか。
その芽の先に、紫色の蕾がついた。
やはり、花だったのだ。
その蕾を見て、娘はいたくご満悦だった。
そして、今朝それが咲いていた。
紫の、小さな花。
奥に、もう一つの蕾も見える。
それにしても、不思議だ。
放置していた鉢植えから、なぜ芽が出るのだろう。
もともと種が埋まっていたのであれば、なぜ去年出てこなかったのだろう。
もしかしたら、日中家にいないうちに、スズメやら何かが、種を運んできたのだろうか。
いや、鳥がそんなことをするのだろうか。
考えるだに、不思議なものだ。
「なんのお花かなぁ」
娘に聞かれて、いろいろと検索してみたが、これというものが見当たらなかった。
不思議なお花、ということにしておこう。
不思議は不思議なのだが、こんなこともあるものだ。
それは植物の花に限らず、人が生きる中で咲かせる花も、同じかもしれない。
土を耕し、種を植え、水をやり、日を浴びて。
そうでないと、花は咲かないと思いがちだけれど。
そうでもないこともある。
なんだかよく分からないけれど、花が咲くこともあるのだ。
あるいはその逆に、どれだけ手を尽くしても、枯れてしまうこともあるだろう。
理不尽に失敗することを受け入れることと、よくわからないけれど成功してしまうことは、鏡合わせのようにも感じる。
自分では何にもやっていないように思っていても、その実、たくさんの種を植えていたりして、気づくとそれが収穫期を迎えているようなこともあろう。
あるいは、その逆も然りかもしれない。
一生懸命に、土をつくり、種を植え、水をやること。
それも、とても大切なことだ。
けれどそれと同じくらい、いま見えている世界を慈しむことも、大切なのかもしれない。
それは不思議を、偶然を、幸運を、不運を、理不尽を、流れゆくものをすべて受け入れるということだ。
不思議な花。
理由なく咲いた花は、いろんなことを教えてくれるようだ。