今週は中秋のお月さまシリーズが続いておりますが、今日は満月です。
やはり満月の光というのは、それ以外の月の光と何か違う神々しさがありますね。
唐の時代に生きた詩の巨人・李白も、その名高い漢詩「月下独酌」において、月と自らの影法師を友として三人で酒盛りを楽しむという幻想的な情景を描いています。やはり月の下では、人はなにがしかのインスピレーションを受けるのでしょう。
もっとも、「月下独酌」では「行楽須及春」、外に出て楽しむのは春に行うべきだ、との一節がありますが・・・
せっかくなので今日は月下独酌に寄せて、そんな春の美しい情景にまつわる言葉を。
春陽の暖かい日差し。
子どもの頃によく来た公園へ子どもたちと。
東洋一の謳い文句の藤棚は、いまが盛り。
ずっと昔に父親の会社の方たちが、同じように盛りの藤棚の下、慰労会をしていた。
小さかった私は、たくさんの大人にキャッチボールをしたり、遊んでもらい笑っていた。
酒席のこと、一人の方が何かで手に怪我をした。
顔も覚えておらず名も知らない方の怪我のことを、ふとなぜか思い出す。
2017.4.30
今日の言葉の舞台は、愛知県津島市の天王川公園です。
桜も紅葉も綺麗ですが、最も有名なのは春に行われる藤まつり。12種類のいろんな藤が、訪れる方の眼を楽しませてくれます。
こちらのご案内が詳しいですね。
私にとっては、少年時代を過ごした思い出深い公園です。
さて、人はそのときの感情とともに記憶をしまい込むと言われます。記憶と感情はセットなのですね。
初めて逆上がりが出来た日、その嬉しかった感情とともに覚えている大きな夕焼けの風景。
恋が破れた日、圧し潰されそうな心の重さとともに覚えている涙の温度。
部活で活躍した日、鼻高々な満足感とともに覚えているグラウンドに鳴るホイッスルの音。
友人に秘密を打ち明けた日、胸の高鳴りとともに覚えているファーストフード店の冷めたポテトの味。
家族そろった食卓で、暖かなつながりとともに覚えている寄せ鍋の香り。
私たちの心の奥底には、いろんな感情といっしょに記憶たちが眠っています。
記憶について考えるとき、過ぎ去った時間は失われるのではなく、感情といっしょに玉手箱のようにしまわれ、再び開けられる日をそっと待っているように私は感じます。
以前ご紹介したジュリア・キャメロンの言の葉を少し引用させて頂くことにします。
母が亡くなった晩、電話をもらった私は、セーターを持って家の後ろの丘を登っていった。雪のように白い大きな月が、椰子の木ごしに登っていった。その晩遅く、月は庭の上に浮かび、サボテンを銀色に洗っていた。母の死を振り返ると、あの雪のように白い月を思い出す。
祖母の想い出はガーデニングと結びついている。毎夏、自分で作っていた小さなプリントのドレスから、片方の褐色の乳房がこぼれ出たこと。やがて失うことになる家から、ポプラの木に続く急な斜面を指さし、「子馬たちはあの木陰がお気に入りなの。私があの木を好きなのは、緑の葉っぱがきらきら輝くからよ」と祖母が言っていたことも覚えている。
ジュリア・キャメロン「ずっとやりたかったことを、やりなさい」
美しい言の葉です。
彼女が亡くなった母親や祖母を思い出すときの情景が目に浮かぶようです。
時の流れは、ある意味で残酷です。
生々流転、あるいは、ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。
変わらないものは何もないですし、生きることは別れることとも言えます。
記憶はそんな私たちに与えられたギフトのように思えます。
過ぎ去りし時間や、今生の別れをした人。
それらは、私たちのこの世界から完全にいなくなったわけではなく、少しだけ別のところに移っただけなのかもしれません。
目に映る情景や、香りや味、歌声、あるいは頬を撫でる風・・・
嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、悔しいこと・・・
そうしたものを素直に味わい感じていると、ふとしたときに私たちの奥底で玉手箱はそっと開き、もう会えないと思っていた人の笑顔がありありと感じられるときがあります。
きっといつも、今日も、どこかで笑っているのでしょう。
失われたものは、何もありません。
さて、お客さまの大切な玉手箱は、どんな情景や感情としまわれておられますでしょうか。満月の下、李白のように「月下独酌」などしてみると玉手箱が開くことがあるのかもしれません。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。