各地から桜の開花宣言が届き始めると、いよいよ春本番となる。
まだ少し寒の戻りがあるものの、うららかな陽気に誘われて外に出たくなる季節。
そんな春本番になると、いよいよG1のファンファーレが競馬場に響く時間がやってくる。
今日は私のホームグラウンドで行われる、電撃の6ハロンのG1に寄せて綴ってみたい。
1996年5月19日、高松宮杯。
前年まで「高松宮杯」といえば、芝・2,000mの伝統の重賞でバンブーメモリー、ナイスネイチャ、そしてあのオグリキャップといった個性的な優駿が勝ち馬にその名を並べる、盛夏の中京競馬場の風物詩だった。
しかし短距離路線の拡充を図るために、当年から芝・1,200mの電撃戦のG1にリニューアルされた。
主要競馬場の東京・中山・阪神・京都以外の競馬場で、初めてG1のファンファーレが鳴り響く。
その期待感に加えてとんでもないスターホースが参戦に、戦前から中京競馬場は熱気を帯びていた。
その馬、ナリタブライアン。
1994年にクラシック三冠と有馬記念を制し、年度代表馬となったシャドーロールの怪物。
しかし翌1995年は怪我に泣き、雌伏の一年を過ごす。
明けて1996年、緒戦の阪神大賞典でマヤノトップガンとの歴史に残る名勝負を制して復活かと思われたが、続く本番の天皇賞・春ではサクラローレルのに屈して2着。
股関節炎の発症から狂った歯車は噛み合わず、ファンの期待する4歳時の爆発的な末脚は鳴りを潜めたままだった。
そんなブライアンが、このリニューアルされた中京の電撃戦に参戦することになった。
ブライアンが歩んできた戦績は、2,000m超のクラシックディスタンスから長距離と呼ばれる部類の中長距離路線。
1,200mはデビューしたての3歳時に経験があったものの、中長距離の超一流馬がスプリント戦に参戦するのは、異例中の異例といってよかった。
迎えた桶狭間の決戦の当日、中京競馬場には入場者レコードの7万4200人を呑みこんでいた。
果たして、ブライアンの末脚は電撃の6ハロン戦で甦るのか。
それとも、歴戦のスプリンターたちが「我らが領土」を守るのか。
70秒に満たない電撃戦のスタートにファンの目が注がれる中、初めて中京競馬場にG1のファンファーレが響き渡る。
電撃戦のスタートダッシュに戸惑ったのか、ナリタブライアンは後方からの競馬となる。
インで包まれ気味になりながら直線を向いた。
ブライアンは過去と現在の狭間で必死にもがいているようにも見えた。
残り150m、ようやくエンジンがかかったのか、周りの馬とは明らかに異なる獰猛なる脚を見せて白いシャドーロールが伸びてくる。
届くのか。
いや、先団までは届かない。4着までだ。
2番手追走から押し切る横綱競馬で勝ったのは、わずか半年前にデビューした牝馬、フラワーパークだった。
調教師・松元省一、騎手・田原成貴。
どこかで聞いたそのコンビは、トウカイテイオーの奇跡を演出した男たちの名前だった。
奇跡を知る男たちは、今度はスプリント戦線に輝かしい未来を見据えるスターを誕生させた。
ナリタブライアンの時代が終わる。
フラワーパークの未来が輝く。
それが交錯する瞬間。
そこには過去の栄光も挫折も、未来へ不安も期待もなく、ただいまここを走る優駿たちがいるだけだ。
それがG1だ。
それが競馬というものだ。
フラワーパーク、1996年高松宮杯を制す。