「いい女」の必要条件とは何か、と問われたら、なんと答たらよいのだろう。
笑顔、知性、美貌、器量、愛嬌、愛情深さ・・・十人十色の答えが返ってくるのだろう。
あくまで極私的な意見ではあるが、一つだけ挙げるとするなら「男を育て、成長させることができる」という資質が条件になるように思う。
男性は決断し、導き、推し進め、具現化し、論理的な結論を出すことが得意といわれるが、根源的にその資質の土台には女性からの承認が要る。
どんな男性も女性からの称賛を無条件で欲し、それが行動力の大きな源泉になる。
体育祭のリレーのアンカーでヒーローになりたいし、
文化祭で女の子を手伝って感謝されたいし、
解けなくて困っている数式をスラスラ解いて称賛されたいのだ。
どんな男性も、行動するモチベーションはずっと変わらない。
そのことを意識的であれ無意識であれ、実際に行動としてできる女性は、男性を大きく育てることができる。
受け入れ、育み、そしてときに厳しく付き放し、男の才能を信頼し、寄り添うことのできる女性は、間違いなく「いい女」だと表現してもいい。
そんな女性を、世の男性が放っておくはずがないし、引く手数多なのは世の常でもある。
さて、パートナーシップとは面白いもので、関係性が長くなればなるほど、その役割が入れ替わる。
というよりも、入れ替わることのできないとパートナーシップは硬直化し、息苦しく、関係性は死んでしまう。
好きだ好きだと惚れられて、情にほだされて付き合っていたはずの彼女に、そっけない素振りを見せられたとたんに心が揺れて、その女性のことばかり考えてしまう。
君の食べたいものでいいよ、と言ってくれる彼氏が、優しくて女性を尊重してくれる男性だと思っていたのに、気づいたら優柔不断で頼りないと感じてしまったり。
そういった関係性が逆転するときは、パートナーシップを深めるチャンスなのだ。
相手が頼りなくて自分が何でも決める「自立」のパートと、
感情に振り回されてフォロワーとなる「依存」のパートと、
入れ替わった瞬間に、今まで相手がどう感じていたのかを思い知る。
ようやくそこで、成熟したパートナーシップへの入り口で入場券をもらったと言えるのかもしれない。
そしてその先には、どちらかが「自立」でどちらかが「依存」という役割から抜け出した「相互依存」の深淵なる世界が広がっていく。
かくもパートナーシップとは深く、また面白く、またしんどいものである。
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1999年11月14日。
京都競馬場、第24回・エリザベス女王杯。
ここまで全てのレースに跨ってきた愛馬の背に、吉田豊騎手はどんな想いをもって臨んだのだろう。
彼女の才能を引き出せるかに頭を悩ませて「依存」していたのか、
それとも自らがその才能を余すことなく発揮できるようにエスコートしようと「自立」していたのか、
それとも。
その才女の名は、メジロドーベル。
父はあのメジロマックイーンとともにクラシック戦線を戦い、1991年の宝塚記念を勝ったメジロライアン。
母はメジロビューティー。母方の曾祖母は古く1965年の最優秀3歳牝馬のタイトルを持つメジロボサツ。
「オールメジロ」と呼べるような血統の彼女は、1994年にメジロ牧場に生を受けた。
美浦の大久保洋吉厩舎に入厩し、1996年7月に新潟競馬場でデビューした。
デビュー戦の手綱を取ったのは、同じくデビューから大久保洋吉厩舎に所属していた若手の吉田豊騎手だった。
デビュー初年度は6勝にとどまったが、2年目で28勝を挙げて勢いに乗る3年目の若手だった吉田騎手を、才気あふれるドーベルはG1の頂点まで導く。
強烈な末脚と、たぐいまれな勝負根性を武器に、
新馬戦 1着。
G3・新潟3歳ステークス 5着。
500万下・サフラン賞 1着。
オープン特別・いちょうステークス 1着。
そして、G1・阪神3歳牝馬ステークス 1着。
才能あふれる彼女との出会いは、気鋭の若手だった吉田騎手を、デビュー3年目にして重賞初勝利をG1で成し遂げるという快挙に導く。
ドーベルという同世代トップクラスの才能の背に乗り続け、そのプレッシャーを跳ね除けて勝利をおさめるということは、何ものにも代えがたい経験となったのだろう。
翌年は彼女とともに本番のクラシック戦線で主役を張る。
不良馬場の桜花賞では韋駄天・キョウエイマーチと松永騎手に後塵を拝するも、樫の舞台では堂々と中段から伸びて戴冠。
充実の秋、古馬混合のオールカマーを勝って臨んだ秋華賞で生涯最後の対決となったキョウエイマーチに引導を渡す2馬身半の差をつけて快勝、2冠を達成する。
この年、吉田騎手は83勝を挙げ、全国リーディング6位の好成績を残す。
当時すでに圧倒的な活躍を重ねていた、栗東所属の武豊騎手になぞらえて、「東のユタカ」とまで称されるようになった。
翌1998年の白眉は、エリザベス女王杯。
圧倒的な人気を集めた一つ上の世代のエアグルーヴを破ってG1・4勝目を挙げた。
まさに、「いい女」は男を育て、成長した男はエスコートする側に回る、そんなパートナーシップの成長劇を見ているような、メジロドーベルと吉田騎手の戦績。
しかし、その翌年の1999年に、彼と彼女の前途を暗雲が覆う。
メジロドーベルは、2月末の中山牝馬ステークスの後に怪我を負い、初めての長期休養を強いられる。
結局、戦線に復帰するのは秋の毎日王冠まで待たなくてはならなかった。
いっぽう、吉田騎手はこの年の夏、先輩騎手との確執を取り沙汰され、レース以外の場面で神経を使う日々が続いた。
そんなドーベルと吉田騎手が毎日王冠6着のあとに臨んだのが、冒頭の第24回エリザベス女王杯だった。
1番人気は、1歳下の2冠牝馬・ファレノプシスと武豊騎手。
メジロドーベルは2番人気で、その後にファレノプシスと同期のオークス馬・エリモエクセルという3強の争いと目されていた。
晩秋の淀に、G1のファンファーレが鳴り響いた。
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スタートは横一線。
戦前の予想通り、引っ張る馬がおらずメジロビクトリアが押し出されるように先頭を進み、各馬一団となって進む。
ファレノプシスは中団の外目、メジロドーベルと吉田騎手はその内側、そしてエリモエクセルはファレノプシスをマークするようにその後ろを進んだ。
馬群が全くバラけないままに4コーナーを曲がり、直線に入った。
ヒシピナクル、エガオヲミセテが抜け出しにかかるところを、馬場の3分どころの内目を突いて伸びてきたのは、赤い帽子と白と緑の勝負服、メジロドーベルだった。
吉田騎手のコースの選択に迷いはなく、進路が空いたところに入ってドーベルは伸びた。
一方、ファレノプシス、エリモエクセルは並んで直線に入って追い込みにかけたが、両馬ともに馬込みを捌くことができず、不利を受け進路を失くしてもがいている。
残り100mを切って、大外からピンク帽のフサイチエアデールが脚を伸ばしてくる
しかしメジロドーベルに馬体を併せるまでは至らず、彼女と吉田騎手は栄光のゴールに飛び込んだ。
直線で進路がなかったり、不利を受けたファレノプシスとエリモエクセルに比べて、勇気を持って内で馬群を捌いたメジロドーベルと吉田騎手の勝利だった。
「今年はいろいろあったので・・・」
勝利ジョッキーインタビューで、吉田騎手は感極まり落涙した。
そこにはパートナーへの「依存」も「自立」もなく、ただパートナーと先頭を駆け抜けることができた「安堵」があったように見えた。
G1・5勝目は、のちにあのウオッカに破られるまで牝馬トップの記録。
エリザベス女王杯が古馬に解放されてから、初めての連覇。
そして何よりも、同じ勝負服のメジロマックイーン以来の偉業となった4年連続G1勝利は、メジロドーベルと吉田騎手が歩んだパートナーシップの軌跡であり奇跡でもある。
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このレースを最後にメジロドーベルは引退した。
彼女の戦績の全21戦、鞍上は全て「吉田豊」の表記が美しい。
その後は母として第2の馬生を送り、今ではその孫の世代がターフを賑わせている。
今年の夏には函館競馬場で、ファンに元気な姿を見せてくれていた。
一方、彼女のパートナーだった吉田騎手は、本日11月10日時点で、落馬による怪我で休養中である。
またメジロドーベルとの成熟したパートナーシップのように、騎乗馬と息の合った吉田騎手の姿をターフで見られることを心から祈っている。
エリザベス女王杯。
京都競馬場、芝2,200m。
晩秋に踊ろう、西の都の舞踏会。