そのときは分からなくても、後から振り返ると「ああ、そういう意味だったのかも」と思える出来事が、時にはある。
それは、渦中のときには分からない。
スティーブ・ジョブズもかの有名なスタンフォード大学卒業生へ向けたスピーチのひとつ目で言っているとおり、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできない。
私たちにできるのは、後からその点と点をつなぎあわせることだけなのだ。
福永祐一騎手。
JRAが主催する騎手課程の「競馬学校花の12期生」の一人として卒業、1996年に騎手としてデビュー。
彼の父もまた、競馬学校の前身「馬事公苑・花の15期生」として岡部幸雄、柴田政人、伊藤正徳ら当時を代表するジョッキーと同期であった。
その中にあっても、福永洋一騎手は「不世出の天才」と呼ばれた。
とても勝ち目はないと思われる追い込み馬を突然逃げ切り勝ちさせたり、3,000mの菊花賞で「ニホンピロムーテーは1,600mなら負けない」と残り1,600m地点で先頭に立たせて押し切ったりと、誰にも予想できない天才的な騎乗をしたと伝えられる。
そんな偉大な父を持った福永祐一騎手のデビューには、たくさんの騎乗依頼が集まった。
3月2日中京競馬場の第2レースで初騎乗初勝利、続けて返す刀で第3レースも勝利。
デビューしてから1勝するのに苦労する新人騎手も多い中、福永祐一騎手はデビュー初騎乗から2連勝という離れ業をやってのける。
その後も勝ち鞍を積み重ねていく中で、重賞やG1レースの勝利は時間の問題かと思われた。
しかし、こと重賞レースといった大レースとなると、「花の12期生」同期の活躍が目立つようになる。
和田竜二騎手が、デビュー年の暮れにステイヤーズステークスをサージュウェルズで勝利して重賞勝ち一番乗り。
翌年にはフルキチこと古川吉洋騎手が、阪神3歳牝馬ステークスをアインブライドで勝利してG1ジョッキーに同期で一番乗り。
早ければいいという話でもないが、どこかでエリートにありがちな勝負弱いというイメージが福永騎手つき始めていた。
1997年11月にG3・東京スポーツ杯で世界的な良血・キングヘイローで中央重賞初勝利を収めたが、翌1998年のクラシックを勝ち切れなかったことで、そのイメージはさらに後押しされたのかもしれない。
そんな1998年の晩秋、福永騎手は一頭の牝馬と出会う。
プリモディーネ。
ダートに強いアフリートを父に持つこともあり、1,400mのダート戦をデビュー戦に選び、幸騎手を背に快勝。
2戦目、芝のG3・ファンタジーステークスに出走、福永騎手に手綱が渡り6番人気ながら差し切り勝ちを収める。
年が明けて1999年。
チューリップ賞4着を経て、そして本番のクラシック・G1桜花賞をプリモディーネと福永騎手は4番人気で迎える。
1番人気のスティンガーが出遅れて場内がざわめく中、プリモディーネは後方待機。
4コーナーを回り外目のコースを選択して追い出す福永騎手に、プリモディーネは力強く応え、見事に差し切り勝ち。
満開の桜の下、うら若き可憐な少女を導いてG1初勝利。
端正な顔立ちの福永騎手の大舞台での初勝利に、これほど似合うシチュエーションもない。
その甘いマスクにこぼれる笑顔が眩しかった、1999年桜花賞。
その後、プリモディーネは役目を終えたかのように、6戦するも未勝利。
引退後はアメリカへ渡り、母としての日々を過ごした。
こうしてプリモディーネの戦績を見ていると、福永騎手に初めてのG1勝利を贈るために出会ったように私には思える。
福永騎手の生い立ち、衝撃のデビュー、同期の活躍、キングヘイローでの蹉跌・・・
それらは全て、1999年の桜花賞のカタルシスにつながっているように見える。
それども、それは後からつなぎあわせているだけなのだ。
そうすると、ジョブズがスピーチで言っていたように、
我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。
のかもしれない。
すなわち、我々にできることは「今ここを生きるしかない」、ということなのだろう。
過去も未来もなく、ただいまこのときを走れ。