大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。それでも、愛することを諦めきれないあなたへ。

私が2年ほど続いたランニングをやめてしまった理由 ~自己否定からする行動は、長続きしない

いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。

今日はランニングをしてきました。

・・・のですが、実は3か月ぶりくらいです。

ええ、以前は「これが習慣化するコツだ!」とかいう記事をドヤ顔で書いておきながら、です。

続けていれば「これが習慣化のコツや!」と記事にして、続かなくなったら「どや!これが習慣化のワナや!」と綴る。

どうもブロガーとは、よほど都合のよい人種でないと続けられないようです笑

今日は私がなぜ2年近く続いたランニングをやめてしまったのか、その理由について考えてみます。

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私がランニングを始めたのは、どうしようもなくしんどくてクスブっていた時期でした。

その時期、私の目に映る現実は問題ばかりでした。

何とか現実を変えたい。
問題を解決したい。

心の世界を学ぶうちに、問題は自分の内面が創りだしているという視点を知りました。

自分が変われば、世界が変わる。

そんな言葉は、クスブっていた私の希望でもありました。

今の自分を、変えたい。
そのために、何かをしないといけない。

運動神経が人よりも鈍く、肉体美や筋肉といった男性性にコンプレックスのあった私は、それを克服しようとランニングを始めました。

同時に始めた筋トレはすぐに挫折したのですが、ランニングは割と続きました。

暑い夏の日も、氷点下の冬の風の日も、来る日も来る日も、だいたい3勤1休くらいのペースで帰宅してから1時間ほど走り続けました。

目に見える成果が出始めると楽しいもので、体重がピーク時から10キロほど落ちるまでにランニングをしていました。

私はランニングに救われました。

ランニングをしている時間は、ぐるぐると考えてもどうしようもない思考や、ネガティブな思考の波が、少し穏やかになったからです。

感情が揺れて辛いとき。

何かしていないと不安だったとき。

どうしようもない過去を後悔したり、

あるいは誰も分からない未来のことが

怖くて仕方なかったとき。

そして、どうしても自分を苛めたくて仕方なかったとき。

ランニングは私の大切な時間でした。

ランニングをしている時間と終わった後の達成感と爽快感は、そうした感情から私を解放してくれました。

ランニングと瞑想は似ている。

これは私の個人的な感想ですが、一人で自分の中の世界に深く入っていく時間という意味で、その二つは似ていると思うのです。

先日、ダイビングが趣味の知人の方は、ダイビングと瞑想が似ていると仰っておられました。

私はダイビングをしたことはないのですが、きっとそうなのでしょう。

無心になれる時間。

ぐるぐると私たちがやめようと思っても考えてしまう思考の渦から、少しの間離れることのできる時間。

瞑想でもランニングでもダイビングでも音楽でも読書でも、そうした時間は人にとって必要な時間のように思えます。

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さて、ところが今年の春先くらいからでしたでしょうか。

ランニングをぱたりとやめてしまったのです。

きっかけは何日か泥酔する日が続いて、ランニングに出る時間が取れなかったと記憶しています。

けれども、その後もランニングするにはとてもいい気候にもかかわらず、なぜか走る気になりませんでした。

ここでやめてしまった自分を否定することは簡単です。

けれど、それよりも続かなかったことに意味があるのだから、走りたくなるまで放っておこう、くらいに私は思っていました。

走らなくなると、日々が酒の誘惑との戦いです。

だいたいその誘惑に負け続けた結果、体重もランニングを始める前の体重近くに戻ってしまいまいました笑

それが、昨日ふと走ろうと思って、久しぶりに走りました。

久しぶりでしたので30分ほどの短いランニングでしたが、以前と違うコースにして近所の神社などを巡って、気持ちよかったです。

そこでふと気づいたのです。

あぁ、いま現在の自分を否定して、それを変えようと思ってしていた行動が、できなくなったのだな、と。

誰しも、自分を変えようと思う最初の動機は、今の自分を変えたいからというものが多いかと思います。

もちろん、それは強いモチベーションになりますので、圧倒的な行動力を生みます。

今の自分を否定していれば否定しているほど、大きなモチベーションになって行動力も大きくなります。

けれど、それはテスト週間や試験前の勉強や、試合前のボクサーの減量のようなもので、そのモチベーションで永遠に続けることはできません。

「自己否定」という燃料で、飛んでいるからです。

それは、少なからず「無理」をしているからです。

私も振り返って考えてみれば、よくその燃料で2年間も続けられたな、と思います。

ときには走りすぎて、足首を疲労骨折してまで走り続けていたのも、完全に「自己否定」という燃料で走り続けていた象徴のように思うのです。

そのことを否定するつもりもありませんし、私にとって必要なプロセスだったように思います。

試験前にがーっと勉強したり、試合や発表会に向けて自分を追い込む場面も、ときに必要なように。

けれども自己否定が緩み、癒しが進むにつれて、そうした自分をいじめたり、変わらないと愛されないといった怖れからの行動は、少しずつ少なくなっていきました。

2年間も続いた習慣が続かなくなったのにも、意味があったと思うのです。

いま私は、
楽しいから、
気持ちいから、
走りたいと思うときに、
ランニングをしたいと思うのです。

ランニングに限らず、他のことについても同じことが言えますね。

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今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。

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