心のことは、身体から。
身体のことは、心から。
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ふと、以前にランニングをしていたときによく見た景色を見たくなった。
「断酒」を決断したときもそうだったのだが、この「ふと」には従った方がいい。
そういえば、最近走っていなかった。
以前、心が揺れてどうしようもなく辛いとき、目の前の闇に明日が見えないとき、何かをしないといけない衝動に駆られていたとき、ランニングの時間は私にとって大切な時間だった。
1時間ほど走っていると、頭の中をぐるぐると堂々めぐりしていた思考の群れが、どこかに行ってしまったようで、すっきりとして心地よい疲れで眠りにつくことができた。
そのランニングの習慣を1年半ほど続けた。
真冬の夜中でも、疲労骨折をしても、二日酔いの朝も、走り続けた。
けれども、あるときからそれが続けられなくなった。
おそらく、少しずつではあるが自分を肯定していくプロセスの中で、自己否定からする行動ができなくなったように思う。
何かを続けることで、ダメな自分を変えたい。
継続し続けて、締まった身体を褒めてもらいたい。
身体を痛めても続けることで、自分を責めたい。
確かに走っている時間は心地よいが、ランニングの動機にはそんな自己否定が入っていたように思う。
それが、できなくなって、間断的にしか走れなくなった。
それでも、あの走り始めたころに見た夜景は美しかった。
普段歩いているはずの近所の街なのに、こんな風景があったとは、と驚きだった。
それが、見たくなった。
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ここのところ、心配ごとや自分の力の及ばぬ話に気をもんだりして、なかなか心が晴れず、何かをすることが億劫になっていた。
心が揺れたり、心配したり、怖くなったり、そんなときは自分のその感じたことを否定せず、それを肯定して寄り添ってあげる。
徹底的に、それを感じ尽くしてみる。
それが、ネガティブな感情を抜けるヒントだとは思う。
けれども、心の問題は心で解決しようとするよりも、ときに身体的なアプローチが効果が高いとも聞く。
これは逆もまた然りで、身体の問題は、ときに心の問題を解決すると治ったりするという話もよく聞く。
それだけ、人間の心と身体は密接に結びついているように思う。
折しも、午後からずっと雨のはずだったが、夕方から雨は上がり、きれいな夕焼けが出ていた。
走ってみようと思った。
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久しぶりに走る感覚を思い出す。
十歩ほど走っただけで、以前との感覚のずれを感じる。
身体は重く、足が上がらない。
その感覚が、大事なのだろう。
どんな感覚であれ、それを感じることを取り戻していく、ということ。
かかとから足が地に着く感覚。
一息ごとに呼吸に意識が向いていく感覚。
まだ冷たい夜の風を肌で感じる感覚。
腕を振る感覚。
視界が上下に揺れる感覚。
思考はまだまだ働いているが、一歩ごとに薄れていく感覚。
つくづく、ランニングは瞑想と似ていると思う。
それは、自分に「空白」を与えるという最高の自己愛と言えるようにも感じる。
「与える」というとき、私たちはいつも「何か」を与えようとする。
それは、他人に対しても、自分に対しても。
ただ、「何もしない」ということも、ときに一つの与え方なのではないだろうか。
それが自分に向くと、瞑想であったりお気に入りのカフェでただほんやりしている時間だったりするし、他人に向くと、信頼して見守る、受け容れる、ということになるのだろう。
ランニングは不思議で、それ自体は「行動」であるし、スポーツであるし、体調が整ったり体力が向上したりするのだが、精神的な面からすると「何もしない」瞑想に近いように感じる。
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そんなことを考えながら、久しぶりの道に少し迷いながら小一時間走った。
途中の中山競馬場の直線のような急坂で、何度も止まりそうになりながらも、何とかお目当ての場所までたどり着くことができた。
走り始めたときから3年が経ったが、名古屋の中心部を望むこの夜景は、以前の記憶から変わりなかった。
今日も世界は美しい。
また、少し走り始めようかな、と思った。