究極的には、とその方は呟くように言った。
「コインを投げるように、人生を決めていい」
その方は続けた。
「むしろ、コインを投げるように、生きた方がいいんだ」
たしかにそうだよなあ、と思いながら、
そう言って、その方が指で弾いて宙に舞ったコインを私は眺めていた。
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人が生きる上での悩みごとは、どれも二者択一のように見える。
続けるのか、やめるのか。
行くのか、引き返すのか。
歩くのか、止まるのか。
肯定するのか、否定するのか。
やるのか、やらないのか。
行動することでしか現実が変わらないとするなら、行動するかどうか、という選択を人は日々続けているのかもしれない。
ところが一歩引いてみると、その選択自体が二元論の罠におちいっていることがほとんどだ。
「Aか、Bか」という選択は、その人の人生の中でさして重要な部分ではない。
「Aか、Bか」という選択のどちらもが、実は同じ目的を持っているとしたら、なおさらその選択は意味を持たない。
どちらを選んでも、人は後悔するだろうし、
どちらを選んでも、人は完璧なプロセスを歩む。
ただ、その選択肢の根源にあるのは同じ目的であり、結局は同じ場所にたどりつこうとしていることは、前提として覚えておいてもいいのかもしれない。
すべての道は、ローマに通ず。
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「マッシュ、父上のくれたコインで決めよう。表が出たらお前の勝ち。裏が出たらおれの勝ち。好きな道を選ぶ。うらみっこなしだぜ、・・・いいだろ?」
この台詞にピンとくる方は、私と同じ世代か、スマートフォンのリメイク版をプレイされた方だろう。
「ファイナルファンタジー6」というゲームの中の一節である。
この台詞を言ったエドガーとマッシュの父親である、フィガロ王国の国王が亡くなる。
父の死の傷を癒す間もなく、王位継承と相続の話をもちかける国の家臣たちに嫌気がさし、自由に生きたいと吐露する弟のマッシュに対して、兄のエドガーがコイン・トスによる賭けを持ちかける。
その結果、エドガーが王位を継承し、マッシュは自分の道を自由に生きるために王室を出る。
「ファイナルファンタジー6」は、どのキャラクターのストーリーも素晴らしいのだが、その中でも特に私が好きなエピソードである。
そして物語の後半のエピソードで、エドガーが投げたコインが実は「両面とも表」のコインだったことが分かる。
エドガーは宙に舞うコインに兄弟と王家の運命を委ねたように見えたが、実は自由を求める弟を想い「偶然」を装ったのだ。
再会したエドガーとマッシュは仲間たちとともに、世界を、そして自分を取り戻すという「共通の目的」に向かって旅をする。
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ぱちん、という乾いた音ともに、コインはその方の手におさまった。
私はエドガーとマッシュのエピソードを思い出しながら、ぼんやりとコインの出目を気にしていた。
頭の中ではフィガロ城のテーマ音楽が流れていた。
コインは表が出たようだったが、そもそも表に託した選択肢がどちらだったのかすら、ぼんやりと聞いていたので覚えていなかった。
その方も、「表はどっちだっけ?」と笑いながら目の前に座る女性に聞いていた。
選択肢に悩んでいた当の女性本人もまた、笑っていた。