葛藤を経て、自己確信を深めるごとに、分かることがある。
どれだけ嘆き、苦しみ、悲しみ、投げ出し、暴れても、
その先に、わたしはわたしを見る。
あぁ、またここに戻ってきた。
心の中にある原初の風景に、何度でも戻る。
戸惑い、傷つき、立ち止まり、引き返し、立ち尽くし、迷っても、
戻ってくる。
何度忘れても、ここに戻ってくる。
ここに戻ってこれる。
自分を見失い、分からなくなり、比べて焦って、忘れてしまって、
また、ここに戻ってくる。
=
その原初の風景は、それこそ人の数だけあるのだろう。
友人の父親のノックに原っぱを縦横無尽にボールを追いかけ回したときの、あの草いきれのむせ返る匂い。
短い冬の陽が傾きオレンジ色に染まる教室で、練習を重ねたときのあの天井の染みの形。
青い夢を語り終わるのが名残惜しくて、何となく終点まで乗った駅のぼんやりとした蛍光灯の光。
年の瀬に珍しく家族で食べた鍋の味と、皆が食べるのを眺めていた祖父の顔。
なんでもない風景を心の宝箱にしまい込んで、人は生きる。
宝箱を開けるたびに、またそれを深く味わい、そっとまた鍵を閉める。
これが、わたしの生まれた道だから。
これが、わたしの生きる道だから。
何度でも、ここに帰ってくる。
=
これが私、という自己確信が深まるたび、自らのいびつな形を受け入れることができる。
生きていくうちにバラバラになってしまった「わたしのカケラ」を、拾い集めるように。
その「わたしのカケラ」はどこかで散らばってしまったものかもしれない。
けれど、必ず見つかる。
それも、これも、みんな私の一部なのだから。
それは傍から見ればガラクタかもしれないけれど、私にとっては宝箱にしまうべきものなのだ。
パートナーとの間に見つかるかもしれないし、子どもや親、きょうだい、あるいはいつも話を聞いてくれた先生の中に見つかるかもしれない。
いろんな場面でそのカケラを拾い、それを集めることで自己確信は深まっていく。
不完全なわたしの偉大さを知り、その歩いている道の完全さを知り、集めたカケラを大切な人に贈ることもできる。
=
自己確信が深まると、一つの恩恵がある。
わたしの偉大さに気づくと同時に、同じ神性が目の前の人に宿っていることに気づくのだ。
わたしはわたし、あなたはあなた。
わたしはあなた、あなたはわたし。
そこではもう、目の前の人と争わなくてもよくなる。
どちらが正しいか、どちらが強いのか、どちらが従うのか、
競わなくてもよくなる。
それは相手を責めることで抱える罪悪感から、わたしを解放するという最大の恩恵をもたらす。
「わたしの方が、正しい」
と人が言うとき、その枕詞の先にあるのは
「あなたが、まちがっている」
「だからわたしに従うべきで、あなたが変わるべきだ」
と続く。
しかし「正しさ」というナイフは、柄もまた鋭利な刃なのだ。
物理の反作用の法則と同じように、相手を傷つけた分だけ、自分の懐もまた深くえぐられ傷ついている。
「正しさ」を主張した分だけ、自分もまた同じように傷つく。
傷ついた分、さらにまた正しさを纏い、その手にナイフを握る。
自己確信は、そうした負の循環から抜け出す恩恵を与えてくれる。
わたしはわたし、あなたはあなた。
わたしはあなた、あなたはわたし。
=
あなたはどこへも行かない。
あなたはどこにも行っていなかったのだから。
いつでもあなた自身のガラクタを集めた宝箱に、帰ってくることができる。
その宝箱をそっと閉じたら、あなたはどこへでも行ける。
あなたのそのガラクタにも見えるカケラを、人は「愛」と呼んでいる。
気づいていなくても、証拠もなくても、正しくなくても、
そこに「愛」はある。
あなたはどこへでも行ける。