気づけば、来年が親の十七回目の年忌の年だった。
あと数年もしたら、今生で一緒に生きられた時間よりも、亡くしてからの時間の方が長くなる。
酷い別れがあると、人は寂しさと悲しさを感じないように、我慢して生きるようになる。
その寂しさと悲しさと向き合い、そして分かち合う術を知らなかった私は、
我慢すれば嵐が過ぎ去り、もっとよい未来が待っていると思っていた。
それは、ある意味でその通りなのだが、ある意味でそうではないようだ。
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心がショックを受けて、見えない血を魂が流し続けているときに、身体に鞭打って動こうとしない方がいい。
動物は、大きな怪我を負ったときは巣穴でじっと傷を舐めて過ごす。
同じように、人が心に大きなショックを受けたときには、
食べる、
横になって目を閉じる、
そして息をする
それをするだけで十分なのだから。
ところが、無理に動こうとしたのに動けないと、それを自分を否定する材料にしてしまう。
こんなことになってしまって、ごめんなさい。
こんなにも世話になっているのに、申し訳ない。
あのときこうしておけばよかったのに、ごめんなさい。
自覚しようがしまいが、その罪悪感は真綿で首を絞めるように魂を蝕んでいく。
首にまとわりついたその罪悪感が、自らの存在価値を否定しきったとき、
人は生きる術を失う。
かつて、冬の早い夕暮れの薄暗いアパートのベッドで、私も生きる術を失っていた。
時間とともに徐々に落ちていく部屋の明度は、私の命のようだった。
そういった意味では、「何もしないことを許すために、いまできないことを我慢する」ことは、その通りなのだ。
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ところが、相手も辛いのだから、この底知れない暗闇の蓋を開けてはいけない、という我慢は猛毒だ。
その我慢は、いつしかわたしもこれだけ我慢しているんだから、という自分の正しさを守る武器となる。
だから、あなたも我慢するべきだ、と。
この思考の枠組みは、結局のところ、
加害者と被害者
原因と結果
善と悪
正しいと誤り
という悲しい対立を際立たせることにしかならない。
被害者は次の瞬間に加害者となり、
原因を変えようとする行為がまた同じ結果を生み、
善と悪は共存できず、
正しい人は間違った人を追い詰める。
すべては、ここに「ただある」だけなのに、意味をつけて裁く。
そういった意味では、我慢をするということは危険なのだ。
そうした我慢は、罪悪感とは違った意味で人の心を蝕んでいく。
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罪悪感と我慢。
ベクトルは違えど、それは自分を責め、そして人を責める方向に必ず向く。
そして人を責めるための矛先は必ず両刃であり、自分も責めることになる。
その螺旋から降りるには、やはりどこまでも自分を愛することなのだろうと思う。
どんなわたしでも、わたしの価値は変わらない。
わたしが何を失敗しようとも、何ができなくても、何も持たなくても、
わたしがそれを見続ける限り、わたしの光は失われない。
どこまでもまっすぐに、その光を見つめ続ける。
どこまでも尊く、どこにもない、その光を、わたしは見つめ続ける。
たとえ今は水面には鈍くぼんやりと見えるだけでも、
海の底でたしかに輝くその光を、わたしは見失わない。
わたしはわたしのかけがえのない価値を、見つめ続ける。
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どんなネガティブに見える欠片の中にも、その光の輝きを見続けるという覚悟が持てたとき、
人はその言葉たちの「わたし」を「あなた」に変換するようになる。
自分の鏡のような周りの人に、その価値を伝えることができるようになる。
「わたし」は、今日ここを訪れて頂いた「あなた」に価値を伝え続ける。
どんなあなたでも、あなたの価値は変わらない。
あなたが何を失敗しようとも、何ができなくても、何も持たなくても、
あなたがそれを見続ける限り、あなたの光は失われない。
どこまでもまっすぐに、その光を見つめ続ける。
どこまでも尊く、どこにもない、その光を、わたしは見つめ続ける。
たとえ今は水面には鈍くぼんやりと見えるだけでも、
海の底でたしかに輝くその光を、わたしは見失わない。
わたしはあなたのかけがえのない価値を、見つめ続ける。