毎年猛暑、猛暑と言っているような気がするが、今年の夏は別格に暑かった。
41℃という見たこともない予想気温を幾度となく見た。
日中に陽射しのあるところを歩いていると、まるで自分がローストされているようで気が遠くなりそうな暑さだった。
41℃といえば、体温からするとインフルエンザのような異常事態なのだから、それも致し方ない気もする。
そんな記録的な猛暑の夏も終わりに近づいた、8月の晦日だった。
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私は街を歩いていた。
少し暑さのマシになってきた午前中に私用を済ませてから、手伝いを頼まれた会場へ向かうために地下鉄の駅へと歩いていた。
その日は曇りのち晴れの予報だったのだが、 急に厚くなってきた雲は薄い墨汁をぶちまけたように空一面を覆い、気づいたときには雨が降り出していた。
出がけに布団のシーツを洗って干してきたことを後悔して、私は憂鬱な面持ちになった。
幸いにして私用を済ませるうちに路面を濡らした程度で雨は止み、空は小康状態を保っていた。
ところどころに水たまりのできた大通りを、私は足早に歩いていった。
この辺りは夜は客引きも多い繁華街だが、週末の日中ともなれば祭りのあとの寂しさと静けさが街を覆っている。
信号待ちの間、人気のベーカリーの開店を待つらしい行列を横目に見ながら、私は少し晴れ間の出てきた空を眺めていた。
いつからか、空を眺める時間が増えた。
365日、一日として同じもののない絶景を眺めることは、意識をいまこの瞬間に引き戻してくれる。
映画「プーと大人になった僕」の中で、プーはロビンと一緒の列車の中で、見えたものの名前を言うゲームをしていた。
木、牛、家、川・・・
このゲームは、人生の大切な真理のひとつのように思える。
過去がどうしようもなく耐え難く、まるでどこかの石切場から転がってきた大きな石のように心が押し潰されそうなとき、
また未来を思い描くことがどうやっても苦しく、まるで出口が真っ黒に塗りつぶされたトンネルのように感じるとき、
私も同じゲームをした。
車窓から目に映るものの名前を、ひとり呟いた。
電信柱。
ローソン。
信号機。
雲。
犬。
木。
小学校・・・
それはプーと同じような戯れだったのかもしれないし、
過去と未来に引き裂かれた意識を「いま」に戻す儀式だったのかもしれない。
空を見上げることは、その儀式の延長線上にあるのだろうか。
そんなことをふと思いながら、私はぼんやりと今日の空を見上げていた。
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横断歩道を渡ると、地下鉄の駅まではまっすぐだった。
生き急いでいるのか、私は一人でいるときはいつも早足だ。
誰かと一緒に歩く時は、ことさら「ゆっくり」歩くように意識しないと歩調がズレる。
それで息子にいつも怒られる。
ふと、そんな早足の私の目線は街路の中ほどの黒い染みに留まった。
街路の汚れかと思いながら、歩みを早めた。
すぐ近くまで来たところで、私はその黒い染みに青色の幾何学的な模様がついているのを見た。
アオスジアゲハ。
力なく身体を横たえたその羽根には、弾かれた雨粒が玉のように丸く転がっていた。
私が子どものころ、無心になって近くの公園で追いかけた蝶だった。
あのエメラルドグリーンの模様の羽根は、よくひらひらと高いところを飛んで捕まえられなかったものだ。
少し歩く速度を緩めた私は、そんな遠い昔を思い出していた。
あの頃、なぜあんなにも一人で無心になって近くの公園を走り回れたのだろう。
同年代の子どもたちがリトルリーグやサッカークラブや何かしらに熱中していた中、昆虫の何が私の心を捉えて離さなかったのだろう。
黒い染みの横を通り過ぎながら、私の心は遠く離れたあの公園に飛んでいた。
一瞬、陽が差して我に返った私は、ふと足を止めた。
そして踵を返し、黒い染みのもとに戻った。
指に摘まれたアオスジアゲハは、私の記憶の中よりもずっと小さかった。
そっと傍の街路樹の根元にアゲハを寝かせ、しばし手を合わせた。
願わくば花の咲き乱れる場所に、いつか、また。
ぼんやりとそんなことを考えながら、
私もいつかそうなるように願いたいと思った。
ぼんやりと地下鉄に10分ほど揺られて、目的地に着いた。
見下ろすと、いつの間にか雲はほとんど流れていったようだった。