「依存」の時代に特徴的な心理として、「被害者」の心理があります。
それは自分の幸せを遠ざけてしまうものですが、自分の人生を生き始めるスタート地点と見ることもできます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.自分を「被害者」にしておくのは、攻撃のひとつ
だれでも「被害者」になることがあります。
それは、たいてい人生でもっとも苦しく、心に傷を残すようなつらいときで、私たちが無防備なところをおそった驚きであったように見えます。
けれども、私たちが被害者の立場になるときは、目に見える以上のことが起きているのです。
「被害者」には「加害者」と同じだけの攻撃性がひそんでいます。
加害者とは攻撃を外に向け、被害者とは攻撃をまず自分自身に向け、そのあと、ほかの人へと向けるのです。
私たちが「被害者」になるたびに、自分の大切な人を攻撃していることになります。
被害者のままでいると「気づき」は生まれません。
そして、もっとも深いスピリチュアルなレベルから見れば、それは「神よ、あなたがよい神でないことをはっきり示してやる。見よ。私は地上でこんなに苦しんで不幸になっているのだ」という、天への攻撃の一種なのです。
あらゆるものから受けとる意志さえあれば、豊かさや愛や援助にかこまれるはずです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.260
2.「被害者」の心理
今日のテーマは、「被害者」の心理でしょうか。
誰でも通る道であり、自分を生きるための通過点でもあります。
不満感から相手を責める
「被害者」の心理とは、満たされない感じ、不満感から相手を責める心理のことです。
これは、「依存」の状態のときによく起きる心理です。
何度も何度も出てきている、人の心の成長のモデルである、「依存→自立→相互依存」のプロセスですね。
「依存」の状態とは、そのすべての始まりの状態です。
自分は何もできない、誰かに何とかしてもらいたい、という心理状態であり、主導権を他人に預けている状態ともいえます。
他人に対するニーズ(欲求)が強く、自分には何も価値が無いと感じることも、この時代の特徴です。
「被害者」の心理は、この「依存」の状態のときによく現れます。
自分が満たされない原因を、他人や社会、あるいは神さまのせいにする心理です。
「あの人のせいで、私はひどい目に遭った」
「私は悪くないのに、あいつはひどい」
「こんなことが起こるのは、社会が悪いせいだ」
…などなど、周りのせいにする心理は、誰にでも思い当たる節があるのではないでしょうか。
私は、とてもよくあります笑
「被害者」は、いつの間にか「加害者」になる
しかし、こうした「被害者」の心理が恐ろしいのは、それが容易に「加害者」の立場と入れ替わります。
「あなたはこんなひどいことをした。
だから、あなたは私に償うべきだ」
そのように思ってしまうのが、「被害者」の心理です。
相手を、責めること。
それが、直接相手に伝えるかどうかは、あまり問題ではないのかもしれません。
自分の心の中で、相手を責め続けること。
それは、いつしか自分を「加害者」の立場にしてしまいます。
相手の罪をとがめ、謝罪や償いを要求する。
そうしていくうちに、いつしか「被害者」と「加害者」は入れ替わってしまいます。
「被害者」には「加害者」と同じだけの攻撃性がひそんでいます。
加害者とは攻撃を外に向け、被害者とは攻撃をまず自分自身に向け、そのあと、ほかの人へと向けるのです。
引用文にも、ある通りですね。
そうすると、何が恐ろしいか。
はい、そうです。「罪悪感」です。
自らの心の内に、「罪悪感」を抱えることになります。
問題のデパートたる、「罪悪感」。
いくら「相手が悪いから」「相手がおかしいから」「相手が間違っているから」、という理由づけをしても、この「罪悪感」からは逃れられません。
「罪悪感」は、じわじわと自分の心を蝕んでいきます。
自分を罰するように、自分を幸せから遠ざけるように、していってしまいます。
これが、「被害者」の心理の恐ろしさです。
それがいい/悪い、よい/よくない、ということよりも、それが自分を幸せから遠ざけることになってしまう。
それが、「被害者」の心理を手放した方がいい理由の一つです。
3.「被害者」の心理を責めるより、その先のビジョンを
神さまに中指を立ててきたこと
こうした「被害者」の心理。
パートナー、親、友人、教師、上司など、いろんな相手に対して、そうした心理を持つことがあります。
しかし、ある意味で最も気づきにくいのは、「神さま」に対するものかもしれません。
それは「神よ、あなたがよい神でないことをはっきり示してやる。見よ。私は地上でこんなに苦しんで不幸になっているのだ」という、天への攻撃の一種なのです。
引用文のこの部分に、私は非常に思い当たるなぁ…と感じます。
特定のだれそれのせいで…という意識はあまりないのですが、それでも私もずっと「被害者」の心理で生きてきました。
あるとき受けた、根本裕幸師匠のグループセッションで、「ずっと神さまに中指立てて、生きてきたんやねぇ」と仰っていただきました。
当時は「えー?いやいや、そんなことないです!」と全力で否定していましたが笑
そうなんですよねぇ。
「見ろ、この不幸を。この不遇を。この孤独を。あなたが全知全能なら、なぜこんな目に遭わせる。あなたが私を愛しているのなら、私を救ってみろ。どうだ、できないだろう!」
自分が不幸せでいることで、神さまにケンカを売る。
それは、私の「慢性的な問題」でもあります。
それがもう癒された、とは全然言えないですし、これからもその問題は、私を悩ませ続けることでしょう。
けれど、「それをどのようにして癒すのか?」ということは、おぼろげながら分かってきました。
引用文の、最後の通りです。
あらゆるものから受けとる意志さえあれば、豊かさや愛や援助にかこまれるはずです。
結局、真実は単純なんですよねぇ、ほんとに。
まあ、それが実際にできるかどうかは、また別のお話なのですが笑
人生のもっとも辛いときに、人は「被害者」になる
そうした、「被害者」の心理。
しかし人は、人生のもっとも辛く苦しいときに、そうなると引用文はいいます。
だれでも「被害者」になることがあります。
それは、たいてい人生でもっとも苦しく、心に傷を残すようなつらいときで、私たちが無防備なところをおそった驚きであったように見えます。
言い換えると、「被害者」の心理になるときは、人生でもっともしんどい時期だといえます。
「被害者」の心理に陥ってしまうとき、そのこと自体を責める必要はないと思うのです。
ただ、自分が人生の中でもしんどい時期にいるということは、知っておいてもいいと思います。
しかし、「陰極まれば陽となす」という言葉の通り、人生の最もしんどい時期は、人生の転換点でもあります。
最も日が短くなる冬至を過ぎると、徐々に徐々に日は長くなり、春の訪れも近づいていきます。
「あの時があったからこそ、いまがある」
そう遠くない先に、そう言える自分がいるからこそ、それくらいしんどい時期があるのかもしれません。
「被害者」の心理に陥ってしまうこと。
人生の中では、時にそんな時期が訪れます。
もちろん、上に見てきたように、それは苦しいものではあります。
けれどもそれは、人生の最もしんどい時期だからこそであり、それは自分の人生を生き始めるスタート地点でもあると言えます。
かつての私が、根本師匠のセッションがスタート地点であったように。
だからこそ、「被害者」の心理を手放すことも大切ですが、その先にあるビジョンを見ていきたい。
カウンセリングの中では、いつもそんなことを私は考えています。
今日は、「被害者」の心理に寄せて、お伝えしてきました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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