人の思考というものは、気候に大きく影響される。
日照時間が少なくどんよりとした気候が多いところで、
楽天的で単純明快な思考にはならないだろうし、
年中サングラスをかけたような太陽が顔を見せる地域で、
陰鬱な哲学は発達しないだろう。
いっぽうで、四季がない亜熱帯のような地域に住んでいる人の話で、
年がら年じゅう同じような気候なので、
記憶がいつのものか分からなくなる、
ということを聞いた。
そういえばあの記憶は、何月の出来事だったのか・・・という具合に。
霞がかった空、桜の淡い色、埃っぽい東風、
薫る風、新芽の力強さ、
蝉の声、焼けるような陽射し、
鈴虫の音、ススキの匂い、
にぎやかな月、透き通った空の色、
凍てつく空気の触感、かじかむ耳の痛み、
鍋の煮える音、寂しい夕暮れ、
どの言葉にも、その風景を補完する記憶が浮かんでくる。
人の記憶や思考は、気候や四季と深く結びついている。
日に日に秋が深まっている。
朝日の昇る方角が少しずつ冬の位置に近づいてきているし、少しずつ木々の葉も色づき始め、錦秋という言葉がよく似合う季節が近づく。
朝、家を出るとひんやりとした空気が肌を覆うのが気持ちよく、なかなか半袖から衣替えできずにいる。
見上げれば、秋らしく透き通った青空と何かが通ったような一本線。
足元には、土色の蛙が跳ねていた。
冬ごもりの準備は進んでいるのだろうか。
日に日に気温が上がっていく「小満」の節気は、よくも悪くも急き立てられるような感覚を覚えることがある。
けれど、この秋の深まりというのは、湯を沸かした薬缶が時間とともに冷めていくように、自然で心地よい。
=
少しずつ、それでいて確実に閉じていく世界。
夏から秋へ。秋から冬は。昼から夜へ。
動から静へ。陽から陰へ。
生から死へ。
一歩ずつ、一歩ずつ季節の螺旋はめぐっていく。
その螺旋に、人は一つずつ記憶を刻んでいくのだろう。
今日も、季節はめぐる。
戻らないように見えるそれは、
大きな癒しのようにも見える。