チャック・スペザーノ博士の名著「傷つくならば、それは愛ではない」の写経を、まだしぶとく続けている。
だいぶ億劫にもなってきたが、せっかくなのであと1ヵ月書き切って1年間完走したいと思う。
今日はその一節に、なるほど!と考えさせられることがあったので、少し記してみたい。
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325日目、自己概念についての一節から。
「自己概念があなたを殺してしまう」
だれでも、よい自己概念がほしいものです。自分のことをよい人間だと思えれば、自然に気分よくなれるだろうと思うからです。しかし、自己概念というのは、もともと自分は否定的で悪い人間なのではないかという疑いから生まれたものです。自己概念は何層にもなっていて、よい自分という概念もありますが、それは単に悪い自分を打ち消すための補償なのです。この層をつきぬけた潜在意識、またはさらに深い無意識の層には、ネガティブな自己概念の「はきだめ」があります。自分についての考えを本当に知ってしまったら、たぶんあなたは耐えられないでしょう。ただし、よい知らせがあります。そういうネガティブな自己概念もまた真実ではないのです。
自分自身についての思考は真実ではありません。それは単なる思考でしかないからです。自己概念とはすべて、あなたが「証明しようとしていること」なのです。それは本当はあなたが「信じていないこと」です。信じていれば、証明する必要はありません。瞑想的なものや創造的なもの以外、思考はつねに出来事よりも一歩遅れています。つまり思考は抵抗とコントロールの一種なのです。
それに対して、あなたの本質とはもっとずっと完全なもので、まったく疑問をさしはさむ必要もないものです。自己概念をつきぬけてしまうと、新しい深さに達します。そこにはあなた自身についてのポジティブな観念があります。単に補償ではない観念です。そこは至福感やエクスタシーにいたる直前、悟りの直前の領域であり、ものごとの本来の姿を見る入り口なのです。
「傷つくならば、それは愛ではない」 p.410
チャック・スペザーノ博士・著
大空夢湧子・訳
「セルフイメージ」という言葉があるが、「よいセルフイメージを持ちましょう」とよく言われる。
自分が自分をどういう人間だと認識しているか?
あるいは自分が自分をどう扱っているか?
それこそが、自分の周りの世界を形づくる礎となる。
自分なんかまったく価値のない人間だと思っていれば、自分の周りの世界からまったく価値のない人間と扱われるし、
自分で自分のことをとても大切に扱い、自分で自分を深く愛することができれば、周りの人から大切に扱われ、深く愛されるようになる。
以前に流行った「鏡の法則」と呼ばれることのように、自己と他者の関係をあらわす一つの真理であると思う。
だから、まずは自分を大切にしなさい、自分を慈しみ、自分を愛することから始めなさい、ということが、よく言われる。
それも一つの真理であると思う。
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ところが本書では、それをもう少し別の角度から掘り下げた見方を提示されている。
「自己概念」それ自体が、「もともとは自分が悪い人間ではないか?という疑い」から生まれた、と言うのだ。
そして「よい自分」という概念とは、私たちの誰もが心の奥底に無意識に持っている「ネガティブな自己概念のはきだめ」の補償行為なのだと。
この一説には、立ち止まって考えさせられる。
「よい自己概念=セルフイメージ」を必要とするは、「自分は悪い人間ではないのか?」という疑いや怖れから来る「補償行為」だというのだ。
例えとして適当かどうかは分からないが、これを読んで私の頭に浮かんだのは
「あいさつをしましょう」
「街をきれいにしましょう」
「人の気持ちを考え、いじめをなくしましょう」
「差別をなくしましょう」
といったような標語が書かれたポスターだった。
こうした標語は、「いまそうでないから」必要とされる。
こうした「善」を推し進める標語自体が、実のところそれが排除すべき「悪」を必要としているという側面があると言える。
もちろん、だからといってそうした標語を否定するわけでは全くない。
ただ、そうした標語自体が「いまそうでないこと」を証明していると考えることはできるのではないだろうか。
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同じように、本書では自己概念についてこう言う。
自己概念とはすべて、あなたが「証明しようとしていること」なのです。
(再掲)
「よいセルフイメージ」を持つこととは、「自分がよい人間です」と周りに証明しようとする行為だと本書は言うのである。
さらにスペザーノ博士はこう言う。
それは本当はあなたが「信じていないこと」です。信じていれば、証明する必要はありません。
(再掲)
この一説がシビれる。
自分が「信じていない」からこそ、「自分はよい人間です」と証明しようとして躍起になるのだ。
もしも、本当に「自分はよい人間です」というセルフイメージなり自己概念を持っていたとするなら、それを無理矢理まわりに証明しようとする必要はない。
だから、「自分はよい人間だ」という自己概念、セルフイメージを必要とする、と言うのだ。
自分を大切にすること、
自分を愛すること、
自分を慈しむこと、
自分の価値を認めること・・・
それらがなかなか難しいのは、こうした自己概念・セルフイメージについての心理的なパラドックスが影響しているのかもしれない。
自分の外に「自分には素晴らしい価値がある」という証拠をどれだけたくさん求めても、実は自分自身がそれを「信じていない」のなら、「まだ足りない、まだ足りない・・・」ともっと証拠を求めて苦しくなるばかりであるから。
そんな証拠は、実は蜃気楼か逃げ水のようなものなのだ。
追いかければ追いかけるほど、逃げていく。
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だとするなら、スペザーノ博士の書いているように、自分本来の素晴らしさを何の証拠もなしに受け取ることが、そのスパイラルから抜け出す蜘蛛の糸なのかもしれない。
あなたの本質とはもっとずっと完全なもので、まったく疑問をさしはさむ必要もないものです。
(再掲)
何の証拠もなしに、ただ自分の完全さを認め、受け入れること。
そしてきっとそれは、引用部分に書かれているように、頭で考えることでは無理なのだ。
瞑想的なものや創造的なもの以外、思考はつねに出来事よりも一歩遅れています。つまり思考は抵抗とコントロールの一種なのです。
(再掲)
考えることよりも、感じること。
それに意識を向けたときに、「自己概念をつきぬける」ことができるのかもしれない。
それは自分の素晴らしい価値に浸ることのできる場所なのだろう。
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つらつらと書いてきたが、結局はあの香港映画の名台詞と同じ結論になってしまった。
Don't think !
FEEL !!!
証拠探しをすることなく、ただ自分の持つ素晴らしい価値を感じよう。