大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。それでも、愛することを諦めきれないあなたへ。

何かを始めると、止まっていた別の何かが動き出す。

思ったようにものごとが進まないとき。

膠着状態や停滞した状態にあるとき。

なぜかやる気にならないとき。

そんなとき、無理矢理進めようとしたり、モチベーションを上げようとしたり、状況を変えようとするよりも、別のことをするのがいいのかもしれない。

今朝、寄稿依頼を頂いていてしばらく筆が進まなかった記事を書き上げて、納品することができた。

半年ほど前に頂いた寄稿依頼だったのだが、昨年の11月あたりから書こう、書こうと思いながらも、起稿することができなかった。

せっかく依頼をいただいたのだから、早く書いて納品したいという気持ちと焦り、それでも筆が進まないことへの無力感、罪悪感があった。

こういうとき、書こうとするほどにドツボに嵌る。

わかっちゃいるんだけど、執着してしまう。

書こうと思うほどに、筆は進まず、画面は真っ白のままだ。

男女の関係と同じだ。

追うほどに逃げたくなり、逃げるほどに追いたくなる。

かくも人の心理とは天邪鬼なものだ。

それはさておき、納品した後に先方と少しお話して思ったのが、やはり「書くことが怖くなった」ということだったのだろうと思う。

がむしゃらに夢中で書いていたときはよかったのだが、ふと気づいて周りを見ると、自分がこんなところにいていいのだろうか、自分の記事に価値があるのだろうか、という怖れがムクムクと顔をもたげる。

一度それに気づいてしまったら、なかなか蓋をすることは難しい。

私なんかよりも知識がある人はたくさんいるし、

私なんかよりも写真を上手く撮る人はいっぱいいるし、

私なんかよりも文章が上手い人もたくさんいる。

そんな中で、私が寄稿する意味はあるのだろうか。

私の記事に価値なんてあるのだろうか。

この怖れのスパイラルに入ると、筆は止まる。

それでも何とかしようと思って、価値を決めるのは自分自身と言い聞かせるけれど、残念ながらそれでも進まない。

何とか途中まで書いたとしても、読み返すとひどく不細工な文章のように見えて、とても寄稿できるような記事じゃない。

そんなときに、過去に書いた記事がTwitterのタイムラインでリツイートされて上がってきた日には、「うわ、こんな拙い記事が公開されている」と恥ずかしくなって、もういてもたってもいられないくらいだった。

やっぱ、書けねえわ。

そううそぶいて、少し書いた原稿をぐしゃぐしゃと破り捨てたいような衝動に駆られ、駄文が表示されるパソコンの画面をグーパンチしたくなり、ふて寝する。

どんなに膠着していても、そのうち転機は訪れるみたいで。

今回の転機は、起稿の依頼をいただいたことだった。 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

少しこのブログや寄稿記事という限られた世界での「書くこと」を離れて、いままでとは違う「書くこと」を始めたことが、いろんな意味での転機になった。

気付けば、寄稿記事を書き始めていた。

それで、昨日納品させて頂いた。

まだ怖れもあるし、もっといい記事が書けたんじゃないかとも思う。

けれども、時間は有限で。

納品したあとに、先方とそんな怖れの話をしていると、その先方の編集長も「自分の記事に価値はあるのか?を考えて、書いてはボツにする日々」だという。

だからこそ、立ち止まって自分を整理する時間は必ず必要だ、とも。

確かにそうだと思う。

何かをやろうとしたり、表現しようとしたりするときに、

「それは価値のあることなの?」

「あなたよりももっとうまくできる人いるよ?」

「どうせ失敗するよ」

という自らの内から滲み出る怖れは、ほんとうに厄介だ。

けれども、その怖れはたいせつなもののようにも思う。

その怖れをどうにかして消そうとしたり、コントロールしたり、乗り越えようとしたりするんだけれども、どうにも私にはうまくいく気がしない。

その怖れは怖れとしてたいせつにしたまま、別の何かをしていると、気づけば停滞していたものが動き出すのかもしれない。

怖れと、その付き合い方。

おそらく、表現を続けていくならば避けられないもののように思う。

日をあらためて、もう少し考えてみてみたい。

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昨日の夜からの雨が上がって、今朝は気持ちのいい青空だった。

久しぶりの雨を浴びて、畑の緑もムクムクと気持ちよさそうに背を伸ばしていた。

晴れの日が続いたら、雨。

季節のめぐりは、たいせつなことを教えてくれる。