いや、そんなことないです。
滅相もないです。
気を遣わせてしまって、すいません。
自分には過分なお言葉です。
それは、逆に申し訳ないです。
そんな言葉を、よく使っていた。
謙遜とは美徳ではなくて、自らの無価値観からくる怯えと誤謬だと気づいたのは、ごく最近のように思う。
それらの言葉の代わりに、
ありがとう。
その言葉を言えるようにしたいと思う。
それは、世界でたった一人の自分という大切な人間の尊厳を守るために。
そして、大切な人を傷つけないために。
=
自分の仕事なのか、性格なのか、才能なのか、容姿なのか、能力なのか、言葉なのか、それらを褒められたとき。
認められたとき。
あなたでよかったと言われたとき。
お世辞ですよね?
ほんとに思ってます?
そんなことはないです。
全然、自分なんかよりもすごい人いっぱいいます。
まだまだ、自分は足りないんです。
そんな言葉とともに、福岡ソフトバンクホークスの「ギータ」こと柳田選手のフルスイングよろしく、強烈に首を振ってしまっていた。
受け取り下手。
愛を、受け取れない男。
それは、ある意味では仕方がないのかもしれない。
心の奥底にずっと蓋をして閉まっていた、過去の傷、痛み。
感じることが恐ろしくて、無意識のうちにヒューズを飛ばすようにして感じないようにして、心の奥深くのとてもやわらかい場所にひっそりと置かれる。
その抱えている傷や痛みがあると、そのやわらかい場所に収まるはずのやさしい何かは、受け入れることができなくなる。
意識するにせよ、無意識的にせよ、この傷を抱えてまだ見えない血を流し続けている私は、ゾンビのような存在なのだ。
そんな私は、大切な人の愛を受け取ってはいけない。
大切な人の愛が、穢れてしまう。
大切な人を、汚してしまう。
だから、受け取れない。
大切な人ほど、受け取れない。
自分は、受け取るに値しない。
それと同時に、この抱えた傷や痛みを引き起こした他人が、たまらなく怖い。
どれだけ笑顔で、どれだけ真心を込めて、どれだけ優しそうに見えても、その差し出された水には、毒が入っているのかもしれない。
そう、あのときのように。
だから、差し出されたコップになみなみと注がれた冷たい水を、腐りゆくまでじっと眺めているしかない。
何度も何度も、乾いた喉を鳴らしながら。
とても美味そうに、それを鯨飲する人たちを横目で見ながら。
差し出した優しい人の、悲しい目を見ないようにしながら。
=
その悲しい物語を終わらせるのは、たった五文字の言葉だ。
ありがとう。
どんな問題も葛藤も困難も、最後は感謝で終わる。
どんな経路を辿ろうとも、人生という旅路の終着点は感謝だ。
どうせ人生の最後にはその終着駅に解脱するのなら、最初からその五文字を言っておけばいい。
ありがとう。
その五文字とともに、どこまでも限りなく広がる意識の中で、
早まる動悸と、
掌に滲む汗と、
全身がむずがゆい感じと、
心の奥底にほのかに宿るあたたかな炎を、
楽しめばいい。
人は、自分の中にあるものしか、 世界を見ることができない。
だとするなら、大切な人たちからの言葉たちは、あなたに向けられた言葉と同時に、大切な人たちを現す言葉でもある。
その言葉を受け取らないということは、
その大切な人たちの素晴らしい存在をも否定してしまう。
これ以上、世界に悲しみと傷を増やさないために。
あなたの大切な人を、傷つけないために。
あなたの大切な人を、大切にするために。
そして、
世界でたった一人の、あなたという存在の尊厳を守るために。
ありがとう。
と言おう。
その五文字を、伝えよう。
今日も、ありがとう。