友人のクワガタ名人にグローブとソフトボールをもらった。
興味深々の息子はバットもほしいと言うので、ホームセンターで買ってきて、さっそく近所の公園に繰り出す。
革の匂い、ボールの縫い目のでこぼこ、指の感触。
どれも、30年以上前の童心に還らせてくれる。
グローブの扱い方に慣れない息子は、ボールが捕れなくてすぐに癇癪を起こしながらも、必死にボールを追いかけていた。
まぶしいな、と思う。
あの頃、ずっと一人で壁当てをしていた小さな私は、こんな風に感情を出してボールを追いかけていたのだろうか。
小学校から帰ってくると、夕飯の支度をする祖母と私の二人きりだった。
小さなボールと、家の壁は、そんな私の大切な友達だった。
自分で試合開始から実況中継をしながら、私はいつも一人でマウンドを守った。
毎日毎日、延々と。
以前にそれを思い出したことを書いたが、一人遊びが好きな小さな私は、そのときすでに両手いっぱいに余る寂しさを抱えていたようにも思う。
寂しかったんだよな、きっと。
まったくバットに当たらないことに飽きて、自転車で遊び始めた息子を横目に、私は公園の壁にボールを投げる。
あの頃は、小松辰雄さんや郭源治さんのピッチングフォームを真似ていたが、今日は私と同い年の平成の怪物、松坂大輔さんのゆったりとしたワインドアップのフォームを真似ていた。
ぽこん、と数十年の時を越えてきたように、その音は響いた。
転がってくるボールを拾う。
投げる。
拾う。
いつのまにか見ていた息子がやりたそうにしているので、場所を空けた。
見よう見まねで、息子も壁当てを始めた。
思うようにボールが返ってこずに、息子はまた怒っている。
大丈夫、何回でもやっていれば、できるようになるさ。
おとうもそうだった。
何回も、何十回も、何百回も、やればいいさ。
それにしても、いまの私が寂しさを抱えるのは分かるのだが、小さな息子と同じあの頃に抱えていた寂しさは、いったいどこから持ってきたのだろう。
共働きの両親がいつも家にいなくて、寂しかったのだろうか。
それもあるかもしれないが、生まれもって与えられたものなのかもしれない、とも思う。
寂しさとは、人間の最も古い感情の一つで、母親の胎内から外に出た瞬間から感じ始めるものらしいから。
誰しもが、心の奥底にぽっかりと空いた穴のような寂しさを持っている。
異性やお金や仕事、ギャンブルやお酒、障害のある恋愛といった刺激物で、それを埋めようとするのかもしれない。
それでも、その穴はなかなか埋まらず、寂しさはときに人を狂わせる。
もしかしたら、その穴を埋める方法の一つは、童心なのかもしれない。
そんなことを思いながら、満足げな息子と家路についた。
家でテレビを点けると、春の甲子園で愛知県代表の高校が勝っていた。
平成最初の年に、夢中になって応援していたあの白いユニフォームだった。
チャンネルを変えると、昨日開幕したプロ野球の中継が流れてきた。
いまは2軍の練習場となった球場に、よく父親と通ったものだった。
いつのまにか球春が来ていたな、などと思った。