トイレを我慢したりするとき、
眠いのを我慢したりするとき、
だいたい自分を大切にすることを忘れている。
自分の体の身体的な反応を無視するときというのは、だいたい自分を大切にすることを忘れているとき。
それは、自分を大切にしていない状態の、分かりやすい指標のように思う。
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ある外国出身の方が、来日して間もない頃、プレゼントを渡されるときに
「つまらないものですが」
という言葉を添えて渡されたため、本当に「つまらないもの」を渡されたのだと思って不愉快になり、包装紙を開けもせずに捨ててしまった、という笑い話がある。
これは、ある外国出身の芸人の方が笑いを取るためにされていたネタで、どこかで私も聞いた記憶があるのだが、実際には笑い話どころではなく、現実の世界でも同じようなことが往々にして起こる。
すなわち、自分で自分自身を「つまらないもの」や「価値のないもの」、「要らないもの」と認識して、相手に差し出してしまう。
すると、お望み通りに相手から「つまらないもの」「価値のないもの」「要らないもの」として扱われる。
そのような扱いをされて、「やっぱり私はダメなんだ、価値がないんだ」と思い込む。
さらに、自分を卑下して相手に差し出してしまう、という悲しい負のスパイラルに入ってしまう。
「自分が自分を扱うように、世界からも扱われる」と言われるように、自分自身の扱い方、セルフイメージというものは、他人からどう扱われるか、ということに直結している。
自己愛、自己価値、自己肯定感といったことの大切さがよく解かれるが、それがないとこうした負のスパイラルに入ってしまう。
ただ、そうした自分を「つまらないもの」「価値のないもの」と思ってしまうのは、「そう思わざるを得なかった」からであり、そこによいも悪いもない。
ただ、そのときはそうせざるを得なかった。
それだけ。
今から、大切にしていけばいい。
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とはいえ、なかなか自分を愛する、というのも難しいものだ。
毎日気分や感情は変わるし、自分を否定したくなるような事が起こったりするし、なかなか今までの習慣は無意識のうちに刷り込まれていたりして、気づくと元に戻ってしまう。
その一番分かりやすい指標が、
「身体的な反応を無視すること」
だと思うのだ。
そう書くのは、ここ最近私自身が身体の声を無視していることに気づいたからだ。
具体的には、
忙しいからといってトイレに行くのを我慢する、
眠いのに何かをしようとする、
ということだ。
汚い話なのだが、トイレで用を足すのにたかだか5分もかからないはずなのに、いろんなことに気を囚われて後回しにする。
あるいは、夜に眠気が来ているのに、まだやりたいことがある、もう少し起きてても◯時間寝れば明日は大丈夫だろう、と起きていたりする。
小さなことかもしれないが、それがすべてのように思う。
以前、カーナビと目標を例えにして、こんなエントリーを書いた。
車 = 肉体、身体
カーナビ = 感情、感覚、心
ドライバー = 魂
とするならば、一番最初に大切にすべきなのは「肉体、身体」である、と。
ディズニーランドや中京競馬場やアンコールワット遺跡や三つ星レストランや、どんなにワクワクする目的地が行先に待っていたとしても、
そこへたどり着く車のタイヤがパンクしていたり、エンジンがオーバーヒートしたり、ブレーキが効かなかったりしたら、
目的地も何もない。
ナビの案内よりも、ドライバーの意見よりも、まずは車体(身体)の声を、最優先で聞くべきなのだ。
それが、もっとも大切で、もっとも根源的な「自分を愛する」ということなのだと思う。
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自分を愛する、ということ。
それは難しく考えるよりも、
身体の声に従う、ということ。
どんな小さな声にも耳を傾ける、ということ。
身体の声はすべて正しい、ということ。
そこから始めてみるのも、いいのかもしれない。
と書いておきながら、書き終えるまでトイレを我慢していたので、さっさと行ってこようと思う。