思考がとっ散らかってしまっているとき。
何かが気になって、取るものが手につかないとき。
これからどうしたらいいか、迷いを感じるとき。
何かに葛藤しているとき。
お察しの通り、それはここ最近の私ではあるのだが、人にはそんな時期がある。
そんなとき、人は自分の外部に答えを求めようとする。
今まで見ていなかった情報が気になったり、あるいは今まで大事にしてきた本を読み返してみたり、それとも人に相談してみたり。
それも大切なことだし、それをもとに行動することはもっと大切なことだ。
現実世界は、行動することでしか変わらないから。
何かをやってみたり、何かを学んだり習ったりしてみたり、あるいは誰かに会いに行ってみたり。
まずは、行動ありき。
けれども、正確に言うのならば「行動すること」よりも「何を行動するか」が大切なのだと思う。
その行動は、自分の現在地と目的地が明確であるほど、自ずと決まってくる。
自分がいまどこにいるのか。
そして、自分はどこに行きたいのか。
悩んだり、葛藤したり、思考がとっ散らかってしまうとき。
それは、今まで大切にしてきた価値観が、新しい価値観によって揺らいでいるときだ。
それによって、現在地と目的地の見直しを迫られているとき、人は葛藤する。
思っていたよりも、いま違う場所にいるみたいだ。
あれ、いままであのオアシスに行こうとしていたけれど、実はそんなに喉も乾いてないし、別に行きたくないな・・・それよりこの地図に書いてある街に行きたいのかな・・・
というように。
それは、日々毎日変わっていく。
身体の細胞を構成するアミノ酸が3ヶ月でそっくり入れ替わってしまうように、何も変わっていないように見えて、私たちは毎日変化している。
「何かを行動すること」と同じくらいに大切なのは、「何もしない時間をもつこと」のように思える。
1日の中でたった5分でいいので、静寂の時間を持つこと。
ただ座って目を閉じる瞑想の時間。
あるいは、中秋の名月をただ眺める時間。
そんな時間を自分に与えることは、自分を大切にすることの最たるものであるし、自分を愛するということに他ならない。
決して、「何もしなくていい」ということではない。
現実を変えるのは行動であり、何かが定まってから行動するよりも、一歩踏み出しながら修正することの方が大切だから。
それでも、その行動を支える「自己確信」ともいうべき「自分の現在地と目的地」は、日々の静寂の時間の中でこそクリアになる。
1日の中で5分でもいいので、何もしない静寂の時間を持つこと。
それは地味で、すぐに成果の見えない時間かもしれない。
けれども、どの問いの答えも必ず自分はすでに知っているのだ。
何もしない静寂の時間は、あるとき静かな気づきをもたらしてくれる。
自分にふさわしい行動を気づかせてくれる。
今日も、ただ座って目を閉じてみよう。