優位的な立場からのもの言い。マウンティング。
自分が最も忌み嫌っていたそれらが、実は自分も多分に持っていて、無意識にしていたのかもしれないことに気づいて愕然とした翌朝。
墨汁をぶちまけたような不快な気分は、変わらず胸のわだかまりとして残った。
けれども、
「そういえば、子どもの頃から『ぼくのかんがえたさいきょうのやきゅうチーム』とか『ぼくのかんがえたさいきょうまほうランキング』とか、よく妄想してたなぁ…
『カウントダウンTV』や『歌のベストテン』も好きだったし…
野球ゲームやサッカーゲームの選手の能力のパラメーターも異常に好きだったなぁ…
まあ、ランキング好きなのは元からなのかな…」
という半ば諦めの心境もあった。
不思議なのは、そうした性質がありながら、私は昔から競争するのが嫌いだったということだ。
事実、ストレングスファインダーの「競争性」は34資質中の32位だ。
そうしたランキングやマウンティングが好きなら、一度は「てっぺん」を目指しそうなものだが。
思い返してみても、私は幼少期から競争に負けるどころか、ハナからそうした競争に加わらなかった気がする。
つくづく、自分というものは不思議なものだ。
こうだと思っている自分のイメージが、他人から見ると全く正反対だったり、今回の私のように最も忌み嫌う性質を自分の奥底に見つけたり。
生きている限り、その探求は終わらないのだろう。
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マウンティングをやめるためには、どうしたらいいのだろう。
もちろん、「シャドウ」はまずは「気づく」ことが大前提であり、それが最も難しい。
「いやー、あのマウンティングをしてくる取引先が、私ってことか…
自分にその要素がなければ、それに気づくことも傷つくこともないんだろうし…
でもなー、やっぱりそんなことないと思うんだよなー
いや、でも無意識的にそうしているとき、あるんだろうな…」
と、気づいてしまえば、感情的に納得していくプロセスをたどる。
ただ、「この自分をもし外に出したら、嫌われて生きていけない」と、強く封じ込めた分だけ、それも自分だと認めるのに抵抗が強くなる。
それを、早くどうにかしたいと思ってしまうのが人情だ。
どうしたもんか。
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ふと思ったのは、やはり「困ったときには逆」という法則である。
押してもダメなら、というヤツだ。
与えてもうまくいかないなら、受け取ってみる。
頑張っても徒労感しかないなら、休んでみる。
ものすごく大切なものほど、手放してみる。
一人でうまくいかないなら、誰かを頼ってみる。
もちろん、その逆も然り。
誰かをマウンティングしたり、見下げてしまうことを止めたいのなら、
誰かを崇拝したり、見上げることを止めてみる。
「上」があるから、「下」を見たくなるわけで、
「上」がなければ、「下」もない。
あくまで対等な、自由な関係。
どんな成功者だろうと、
どんな有名人だろうと、
どんなお金持ちだろうと、
どんな素晴らしい事業をしていようと、
どんなすごい技術を持っていようと、
どんなにたくさんの知識のある人だろうと、
どんなにお年を召された方だろうと、
どんな恩義のある人だろうと、
私の「上」ではない、と知ること。
礼儀礼節をわきまえた上で、対等な関係を築くこと。
それは同時に、
どんなに失敗を重ねていようと、
どんな馬の骨か分からない人だろうと、
どんな貧しい人だろうと、
どんなにゲスなことをしていようと、
どんな未熟な人だろうと、
どんな赤子だろうと、
どんな不倶戴天の天敵だろうと、
私の「下」ではない、と知ることに他ならない。
それは、才能や資産や人脈のあるなしにかかわらず、どんな人でもできることなのだ。
ただ、「自分が」そうする、と決めさえすれば。
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見上げず、見下げず。
ただ、目の前の人を見る。
その路傍に咲く花も、そのようにして咲ているのではないか。
どんな人にも同じように、その美しい花弁を傾けているではないか。
その花を見るように、ただ目の前の人を、見よう。
世界はいつだって完璧で。
ただ、そこにある答えに気づくだけ。