その言葉を聞いた瞬間、
「この野郎、それを言いやがったな」
と思った。
それだけは言っちゃダメだろう。
そのことを誰もが痛いほど分かっちゃいるけど、それでもダメだ。
頭に血が上った。
机を蹴って帰ってやろうかと思うが、眼を閉じて一つ深呼吸をする。
交渉は、席を立ったら負けだ。
それは有史以来、変わることのない人類の真実だ。
沈黙が続き、空気が重くなる。
けれど、そんなこと知ったことか。
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自分と自分以外の他者との関係は、いつも自立と依存というポジションを取る。
何でも自分で決めないと気が済まない自立と、
あなたが決めないと私は決められないのという依存と。
そのシーソーの揺らぎに、いつも私は翻弄される。
自立的で優位な立場を利用して、人を従わせようとするやり方が、私は嫌いだ。
これが仕事のやり取りなら、
「そんなこと言うのなら、仕事を出さねえぞ」
という脅しになるだろうし、
恋愛における関係性のもつれなら、
「君がそんな風なら、別れようか」
という台詞になるだろうし、
銀行なりパトロンなりとクライアントの関係なら、
「そうしないなら、お金は出せません」
という強権発動になるのだろうし、
お菓子売り場の前でぐずる幼い子と親の関係なら、
「言うこと聞かないなら、もうあなたのことは知らないわ」
という会話になるのだろう。
それらの台詞が言える立場になっても、絶対に言わないように私はしていた。
その台詞を言ってしまったが最後、NOと言えないからだ。
NOと言えない関係は、フェアじゃないし、対等じゃない。
だから、その台詞は言ってはならない。
その関係を本当に終わらせてもよいという覚悟が、自分に無い限りは。
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信号待ちの間、慣れないハンドルの円の頂点に両手を重ねた。
堪えていた涙がこぼれるように、分厚い雲から静かに雨が降り出してきた。
雫が目立ってきたフロントガラスを見て、ワイパーを動かした。
肚の底では、怒りが渦巻いている。
その怒りは、「その台詞」に対するものなのか、結局持ち越しとなった結論へのものなのか、よく分からなかった。
くぐもっと音を立てて滑るワイパーを見ていると、私の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。
シャドウ。
生きられなかった、もう一人の私。
人が他人に対して怒りを覚えたり、ムカついたり、イラついたりする場合、だいたいの場合において、その他人の中に「自分が本来持っているのに抑えている要素」を見ている。
自分がもっとも忌み嫌い許せないあの人こそが、本来の自分に還るヒントを与えてくれている。
穏やかで冷静な仮面を被っていた人には、怒りをまき散らす人が許せない。
けれど、仮面の下には情熱的に生きる「わたし」がいる。
競争が嫌いな仮面を被っていた人には、売上とお金にこだわるあの人に怒りを覚える。
ほんとは誰よりも負けず嫌いなのが、「わたし」だから。
真面目に生きてきた人には、すぐサボって怠けるあの人が許せない。
誰よりも人生を緩んで楽しみたいのが「わたし」だから。
誰にも頼らない鉄仮面の人ほど、誰にでも媚びるあの人を嫌う。
それは、もっと愛されたいという「わたし」の気持ちを抱きしめるために。
進歩と成長を大切にする人ほど、平凡な毎日を送る人を批判したくなる。
いまここにある幸せをすくい取ることのできる「わたし」に気づくために。
平等を大切にする人ほど、えこひいきする人に虫酸が走る。
誰かを特別に愛することのできる「わたし」の鍵が見えるから。
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こうした心の世界の知識というのは、客観的な話として聞く分には面白い。
けれど、いったんそれが自分事として見えてしまうと、悶絶して枕にヘッドバッドを繰り返すし、今までの自分の行動を振り返ってヘドが出そうになるし、真夏に放置された生ゴミの入った容器の蓋を開けたような気分になる。
マウンティングが嫌いと言っておきながら、一番マウンティングをしていたのは、実は私なのかもしれない。
ぁぁぁぁぁぁぁ…イヤだ…
あの言ってはならない「その台詞」をしたり顔で吐くあの野郎が、私なのか…
嫌だいやだイヤだ、嘘だ…
一人車中でうなだれる私に、後方車両からクラクションの追い討ちがかかる。
気付けば信号は青になっていた。
慌ててアクセルを踏む。
そう、ヘドが出そうなくらいイヤなのだが、だからといって何かしようとしなくてもいい。
クラクションによって信号の色に気づいたように、マウンティングが嫌いだと言いながら、その実、マウンティングをしていたのが私だと気づいたなら、それで終わりなのだ。
気付いたら、降参するだけ。
それも、私なんです、と認めるだけ。
それこそが、最も辛く、最もしんどいのだが。
イヤだけど、しょうがない。
それも、私なんです、と。
墨汁を飲み込んだような気分のまま運転を続け、ようやく車を停める。
朝、見たツツジの花が雨に濡れていた。
少し、墨汁が薄まったような気がした。