風の強い日だった。
息子と娘と出かけた近所の公園では、新緑の色をした葉が忍術のように舞っていた。
ベンチに腰掛けて、すっかり新緑の季節の色になった空を見上げると、また内省の時間になった。
最も嫌いな優位的な立場を使ってのマウンティングをされてから、実はそれはずっと抑えていた自分だと気づいて悶絶して、なかなかに考えることはたくさんあった。
ひょっとして、自分は自分が考えていたような自分ではないのかもしれない。
たいせつな友人からも、メッセージをもらった。
ほんとうに競争心が強い人は、芸術に走るんだよ
数字で測れる競争の世界から、数字で測れない世界に移る人は多いらしい。
そこで、おそらくさんざん競争をし尽くしたあと、結局、他人との競争ではないと気づいていくそうだ。
ものすごく、納得した。
いや、降参した。
小さいころから、私は競争することをしなかった。
単に自分の腕力が弱かったからだと思っていたのだが、どうも話はそれほど単純ではない気がする。
競おうと思えば、腕力以外のものでも競えたはずだ。
けれど、それをしなかった。
できるだけ競わないように、どうしても競わないといけない場面がきたときは、いかに目立たないようにうまく負けるかを考えていた。
それは、実は自分の力を心の深い部分では知っていて、それだけに、もしそれを発揮して負けたら、立ち直れないくらいショックだから、なのかもしれない。
「自称・やればできる子」の心理に近いのかもしれない。
もしその力を表に出したとき、
ぐうの音も出ないほどに負けてしまったら。
心無い批判を浴びせられたら。
それどころか、世界が何ごともなかったかのように時を刻んでいたら。
その力を信じていた自分は、どうなってしまうのだろう。
競走を怖れる裏側の心理には、ずっとその怖れがあったのかもしれない。
ほんとうのところは、競争が嫌いなんだろうか。
つくづく、歳を重ねるごとに自分が分からなくなっていく。
=
書かなければ、頭の中だったら、どんな素晴らしい文章も綴ることができる。
それでも、こうして画面を一文字ずつ黒くしていくにしたがって、目の前に現れたそれと頭の中の妄想とのギャップを、毎日毎日味わっている。
「書く」とは、無限の可能性を秘めた真っ白なキャンバスを、現実という絵具で黒く塗りつぶしていく行為なのかもしれない。
それでも、
それでも。
=
ふと気づくと、小さな芸術家は、足元にアートを描いていた。
童心。
好きなことを、好きなように。
芸術にも人生にも、勝ちも負けもない。
ただ、そこにあるだけだ。
ただ、それでいいのかもしれない。
たいせつな人に頂いた言葉が、頭に浮かんだ。
好きなことを無心で歩くことが、人生の要になります。
歳を重ねるごとに、自分というものが分からなくなっていく。
それでも、歳を重ねるごとに、たいせつな言葉は増えていく。
新緑の木の葉の舞う道を、私は早足で歩いて帰った。