平成最後の朝は、雨だった。
いまが盛りのツツジを濡らしていた。
なくなるもの、
過ぎ去るもの、
失われるもの、
戻らないもの…
そうした世の不可逆なものに、いつも私の心は締め付けられる。
思春期から社会人、そして人の親となって過ごした平成という時代が終わる。
ナゴヤ球場の失われたライトスタンドを訪れたこともあってか、なおさら過ぎ去る時代というものに感傷的になる。
実家を出て下宿した。
競馬と麻雀とパチンコと音楽漬けの毎日を送った。
気づけば、一人になっていた。
ホワイトな企業で、ブラックな働き方をした。
人の親になった。
自分の抱えてきた心の闇を知った。
同時に、愛を知った。
かけがえのない仲間ができた。
書くことを始めた。
二度とは戻らない日々が、そこに確かにあった。
平成最後の日が、雨でよかったと歩きながら思った。
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そんな平成最後の日は、どうにも体調と気分が優れず、人生で何度もないであろう改元の日付が変わるのを待たずに、早々に終わる時代を抱いて床に就いた。
明けて令和元年五月一日の朝。
テレビを点けると、新しい時代を祝う人々の熱気があった。
昭和から平成に変遷の際の自粛ムードはどこにもなく、そこには新しい時代への希望と喜びがあふれていた。
不敬を承知で、上皇陛下はこの空気を望まれていたのではないかと思った。
過ぎ去りし過去に傷み、悲しみ、嘆く時代ではなくなったのだ。
ただ、未来の希望と明るさを見て、喜び、それを受け入れるだけでいいのだと思う。
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時代は、確実に、変わった。
けれど、新しい令和の朝も、まだ厚い雲から雨が降り続いていた。
涙雨。
そんな言葉が思い浮かんだ。
けれど、その涙はたった一晩が過ぎただけで、その暖かさを変えたような気がした。
悲しみを浄化する涙から、愛の深さを知った瞬間の涙へ。
はじまりは、いつも雨。
過ぎ去りし平成の時代を彩った、あの名曲のタイトルが思い浮かんだ。
平成最後の朝は、雨だった。
令和の最初の朝も、雨でよかったと思った。