サービスの提供者が決められるのは、「提供者の自己価値」であって「サービスそのものの価値」ではない。
そこを混同すると、世にあるすべての「サービスの質」との比較競争の罠に嵌ってしまう。
その競争は際限がないため、サービスを提供すること自体が苦しくなってしまう。
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平成最後の日に、執筆依頼を頂いていた文章をクライアント様に納品させて頂いた。
今回は、クライアント様が営業に使われる自己紹介文をご依頼頂いた。
zoom(オンライン会議アプリ)を使用して依頼内容の詳細ヒアリングをさせて頂き、いくつかオンラインで質問にお答え頂いてから、執筆に入った。
納品する際には、やはり怖さが出る。
「喜んでもらえるだろうか」
「満足してもらえるだろうか」
「頂いた対価分の価値を、提供できたのだろうか」
「何か不満な点は、なかっただろうか」
・・・などなど。
どうしたって、書いた作品がその手を離れる時は、強烈に他人軸に振り回される。
その価値を決めるのは、どうしたって相手でしかないのに。
分かっていながら、悶絶するのである。
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吉兆の創業者・湯木貞一氏のエピソードのなかに、私が好きな逸話がある。
湯木貞一氏が昭和のはじめに大阪・高麗橋に店を構えた当時のこと。
お越しになったお客様が、
「美味しかったよ」
と仰って帰られるのをお見送りしていると、
湯木氏はそのお客様を後から追いかけて
「ほんとうに美味しかったですか?」
と尋ねたい衝動に何度も駆られた、と。
茶道を愛し、茶懐石を料理に取り入れ、日本料理を芸術まで高めた湯木貞一氏のエピソードと比べるのも、不遜だとは思う。
けれど、このお客様をお見送りする湯木氏の心情は、サービスを提供する者は誰しも感じるもののように思うのだ。
「ほんとうに美味しかったですか?」と。
もちろん、ほんとうにそのお客様のあとを追いかけて行って、そのことを尋ねても同じ話だ。
「美味しかったですよ」
と言われたところで、話は振り出しに戻るからだ。
どこまで行っても、「提供する側」にとっては、そのサービスの価値は気になるものだ。
それが、たとえお客様が決めることだと分かっていても。
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サービスや製品、あるいは作品の「価値」を決めるのは、「提供する側」ではなくて「提供される側」。
その「意味」を決めるのは、「話す側」ではなくて「聞く側」であるという、コミュニケーションの原則と同じだ。
いくら提供する側が素晴らしいサービスだと思っていても、提供される側はそう感じなくて売れない、なんてことはザラだし、
いくら相手のことを想って発した言葉であったとしても、全く逆の受け取り方をされて相手を怒らせる、なんてことはいくらでもあるだろう。
そこには、残酷なまでの断絶がある。
あくまで「提供する側」は、「提供する側」に過ぎない。
「提供する側」がそのサービスなり製品にどんなに価値があると思っていても、「提供される側」がその価値を認めない限り、マーケットの上で価値はない。
その逆も然りだ。
「提供する側」がもっと優れたサービスは世の中にいっぱいあると思っていても、「提供される側」がその価値を見ていれば、それにはマーケットの上で価値があることになる。
たとえば「マッサージ」というサービスひとつを取ってみても、技術、経験、話術、コストパフォーマンスなどの比較をしだしたら、きりがないのだろう。
それでも、日本全国に数えきれないくらいのマッサージ店があり、マッサージ師がいて、今日もどこかで誰かがマッサージを受けている。
そのマッサージ店やマッサージ師に、その顧客なりに「価値」を見ているからだ。
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だとするなら、「提供する側」や「話す側」は、そのサービスの価値や言葉の意味を決められない依存的な立場に過ぎないのだろうか。
そうではないように思う。
サービスを「提供する側」が決められるのは、提供するサービスの価値ではなくて、「提供する側自身」の価値であると思うのだ。
サービスの価値は、それを受け取る側、市場が決める。
けれど、「提供者の価値」は提供者自身が決めることができる。
提供する私自身の価値を、
「こんなにも素晴らしい私」
と見るのか、
「どうしようもなく価値のない私」
と見るのか。
それは、提供する私自身が決めることができる。
そのいずれかによって、提供するサービスは、その先いかようにも変化していく。
そして、
究極のところ、
顧客というのはサービスの質ではなくて、提供者自身に惹き付けられるのだとも思う。
もちろん、サービスの質が悪くていい、という話ではない。
ただ、「サービスの質が選ばれている」という罠に陥ると、冒頭に述べたように世の全てのサービスが比較競争の対象になり、苦しくなるだけだ。
それよりも、提供者である自分自身の価値を認めることだ。
ただ、そこに咲く花のように。
自分自身の価値を卑下することなく、ただそのままに認めていきたい。
執筆依頼を納品して、そんなことを考えさせられた。
何でも、経験するというのは大きいものだ。
このたびはご依頼頂きまして、ありがとうございました。