朝5時前に起きて、家を出た。
目指すは東京都府中市。
令和元年の、日本ダービーへ。
新幹線の車窓から覗く霊峰は、皐月の青空によく映えていた。
ダービー晴れ、東京優駿日和とでも言うべきか。
ダービーはワクワクというより、切なくなる。夏の甲子園の決勝のようでもあるし、終わった後に必ず訪れる祭りの後の寂しさ、ロスを想像してしまうこともある。
新横浜で横浜線に乗り換えて菊名まで。菊名から東横線で武蔵小杉へ。
学生時代に何度も通った武蔵小杉は、タワーマンションが林立し、多くの線との相互乗り入れにより見慣れない行き先が表示されて、少し寂しくなる。
武蔵小杉でJR南武線に乗り換え、府中本町へ。新聞を抱えた男性客で満員の車内で、あと6,7時間もすれば、この胸の高鳴りが終わってしまうと思うと、すでにやりきれない切なさが去来する。
辿り着いた東京競馬場。
夏空を思わせる青い色と、目に痛いほどの陽の光。
なぜ、青い空と緑の芝とスタンドを見ると、こんなにもテンションが上がってしまうのだろう。
ダービー・デイらしく、午前中のレースからパドックにも多くの人が見られる。
1レース目から、場内のテンションは異様に高く、スタンドから大きな歓声が飛ぶ。いつもどおりなのは、当たらない私の馬券だけだ。
そして、レース終わるたびに、ダービーへの時間が近づいていくことを実感する。
10レースのむらさき賞が終わると、確実に場内の雰囲気が変わった。私はゴール前スタンドの立見席の場所を確保して、ダービーまで地蔵になることにした。
あと、1時間。これほど特異点となる1時間も、ないだろう。
早く過ぎて欲しい、けれど、過ぎて欲しくない…何なのだろう、この1時間は。
びっしりと埋まってきたスタンド。
指定席の2階、3階席で観戦できたら快適だろうとは思うのだが、それでも私はこのゴール前の立見席の雑踏が好きだ。
かつて、ナゴヤ球場の内野席のチケットを持っていたのに、「外野のライトスタンドがいい!」と言って父を困惑させたことを思い出す。
昔からそんな気質は変わらないのかもしれない。雑踏が、人ごみの中で観戦するのが、好きなのだ。
いよいよ、本馬場入場。
白い先導馬に導かれ、栄光の18頭がターフに姿を現す。
各馬の白いゼッケンを見ると、ダービーなんだと実感する。
赤い帽子、圧倒的1番人気のサートゥルナーリア。
その後ろ、青い帽子は人気の一角、ダノンキングリーも気配は絶好のように見える。
そして黄色い帽子に黄色いメンコ、5枠9番、ニシノデイジーと勝浦騎手。
今日はこのコンビに声援を送りに来た。
大好きだったセイウンスカイの血を引く、西山牧場の執念。
去年の札幌3歳ステークスから応援してきたが、よくぞダービーまで駒を進めてきてくれたと思う。
単勝1倍台の圧倒的支持を集めたサートゥルナーリアが、スタンド前を悠然と歩いていく。無敗のダービー馬、そして歴史的名馬の誕生となるか。
ルメール騎手から乗り替わりとなった、鞍上のダミアン・レーン騎手の心中はいかに。
ゴール板を過ぎたあたりで踵を返し、キャンターで駆けていくサートゥルナーリア。
漆黒の馬体が、5月とは思えぬほど強い陽射しを浴びて輝く。
芸術品のような、生命力あふれる3歳サラブレッドの粋を見ているかのようだ。
2番人気のヴェロックスと川田騎手。
こちらも返し馬の雰囲気は絶好のようで、待機所へ落ち着いて駆けて行った。
青葉賞馬・リオンリオンと若武者・横山武史騎手。
最後に、スタンド前をゆっくりと駆けて行く姿は、スター性十分のように感じた。
無念の騎乗停止となった父から受け継いだ手綱。
若く才気あふれる騎乗で、大胆に乗ってほしいと願った。
本日の入場者数は11万人超。
東京ドームの巨人戦2回分の人を、この東京競馬場が飲みこんだと思うと、改めて驚いてしまう。さらに驚くべきなのは、入場者レコードのアイネスフウジンが勝った1990年は19万6千人だったという。
このすし詰めの人の2倍近い観客…文字通りの「立錐の余地もない」状況だったのだろう。
木村カエラさんによる国家独唱が終わり、緊張感が一気に高まる。
スタート地点へ、各馬が移動を始める。
ターフビジョンに、サートゥルナーリアが激しく首を振っている姿が大きく映し出され、スタンドが大きくどよめく。返し馬までは、あれほど絶好の気配だったのに。
シーザリオ、エピファネイア、リオンディーズ…激しい闘争心と紙一重の狂気の血が、ここで騒いでしまったのか…
ファンファーレが鳴り響き、2,400m彼方の栄光へのゲートが開く。
同時に、スタンドが再びどよめく。
サートゥルナーリアが出遅れた。やはり、あのイレ込みが効いたのか…
前の止まらないこの日の超高速馬場で、苦しい展開になることは誰しもが想像したことだろう。この不利を乗り越えて勝てるほどに、サートゥルナーリアの力は抜けているのだろか。
だが、もしこれで勝ってしまったら、それこそ歴代の名馬に並ぶような本当の怪物だろう…私はそんなことを考えていた。
1周目のゴール前、先手を取ったのは1枠1番ロジャーバローズだった。
外からリオンリオンが前をうかがう。
1コーナーを回ったあたりで、リオンリオンがハナを奪い、リードを大きく広げていく。離れた2番手にロジャーバローズ、そこからまた少し離れて馬群が続いた。
向こう正面、1,000mの推定ラップがターフビジョンに表示される。
57秒8。
スタンドが三度どよめく。
いくらなんでも、速すぎるのではないか…
やがて大欅を越えて3コーナーを過ぎて、4コーナーを回って直線を向いた。
怒号のような大歓声。
私もニシノデイジーと勝浦騎手の名を必死に叫んだ。
ロジャーバローズがリオンリオンを交わして先頭に立つ。
ダノンキングリーが、抜け出したロジャーバローズに襲い掛かる。
ヴェロックスも食い下がる。
ニシノデイジーは内からするすると抜け出しにかかる。
サートゥルナーリアがようやく伸びてくるが、届きそうにない。
ダノンキングリーがロジャーバローズに馬体を併せたあたりが、ゴール板だった。
サートゥルナーリアとヴェロックスは3番手争いか。
圧倒的1番人気が負けたゴール後は、一瞬の静寂が起こる。
まるで見てはいけないものを見てしまったかのように。
その瞬間が、好きだ。
非合理な現実を突き付けられ、もっと自由でいいよ、不確実でいいよ、それが人間なのだから、と諭されているようで。
ロジャーバローズと、ダノンキングリー。
私が観ていた位置からは、どちらが優勢か判別がつかなかった。
放心状態で掲示板を見ていると、やがて一番上の欄に「1」の文字が灯った。
湧きおこる大歓声。
勝者のウイニング・ラン。
浜中騎手は、ダービー初勝利。
12番人気、単勝9,310円。
人気もオッズも、人のつくりしもの。
いつも私は蜃気楼のような、その幻に惑わされる。
小賢しい他人の評価など、気にするな。
誰もお前の本当の力を知らない。
走れ。
勝ちたかったら、前へ行け。
ただひたむきに、走れ。
自らの身体に流れる、その偉大な血を信じて。
ためらうな、恥じるな、まっすぐに、走れ。
何度も何度も歓喜の拳を突き上げる浜中騎手に、胸が熱くなった。
オケラだろうが、ボウズだろうが、こちらも何度も何度も「おめでとう!!浜中ァ!!」と連呼した。
ええもん、見せてもらった。
ありがとう、ロジャーバローズ。
ありがとう、浜中騎手。
そして、おめでとう、ロジャーバローズ。
関係者の皆さま、おめでとうございます。
やはり祭りの後の寂しさはとんでもなくて、しばらく私は壁にもたれかかってぼんやりしていた。
現地で観戦すると、11万人の寂寥感が漂うようで、なおさら寂しくなる。
来週からまた次のダービー馬を探すというミッションが始まるのだが、しばらくこの寂寥感は抜けそうにない。
それでも、府中本町駅までの帰り道、ロジャーバローズの文字を見て、また私は「おめでとう」と一人つぶやいた。
おめでとう、ロジャーバローズ。
おめでとう、浜中騎手。
ありがとう、令和元年の日本ダービー。