やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉となれりける。
「古今和歌集 仮名序」より
千年の昔の歌人の言葉を例に引くまでもなく、
言葉というのは、実に不思議だ。
それはコミュニケーションの手段でもあり、
内省の導きでもあり、
人のこころをあやめる刃にもなり、
そして天上の癒しをもたらす福音でもある。
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思うことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出だせるなり。
同上
伝えたいことが多くなればなるほど、人は言葉を紡げなくなる。
なぜ伝えたいことが多くなるのだろう。
それだけ、大切なことなのだから。
それだけ、そこに愛が詰まっているから。
言葉が紡げないのは、愛が深いから。
それは、ラブレターと同じように。
それなのに、いつも私は
「ラブレターを書けないのは、愛がないからだ」と責めたくなる。
その裏側にある、
書いては破り捨てられた何百枚のラブレターがあることを知っていながら。
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
同上
されど、どんな誹謗中傷の醜い汚泥のような言葉の裏にも、
必ず愛を求める叫びがある。
その非道い言葉の奥にある、
自分自身と世界を責める「誰か」の苦しい心に寄り添えたとき、
私たちはまた一つ、自分自身を癒すことができる。
それは、私たち誰しもが生まれた瞬間から握りしめていた、
凍えるような寂しさと、身を貫くような悲しみの一部への癒しでもある。
どんな非道い言葉の裏にも、
必ず、愛を求める痛みが、叫びが、呻き声が、ある。
そして、どんな言葉に対しても、
その反応として、答えとして、
自分の頭に浮かんだその言葉こそが、
自分に必要な言葉だ。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
同上
私たちは、
誰しもが、
言葉にすることで、
相手よりも、
自分自身に伝えようとしている。
私たちは、
どんなに自分を責めて、嫌って、許せない時ですら、
そんな自分も愛したいと、
心の奥底で願っている。
愛情が深すぎるがゆえに、
書けなかった自分へのラブレターは、
いつもそこにそっと隠されている。
すべての癒しは、
きっと、
自分が癒されることで終わる。
言葉は、
いつもそれを教えてくれるのだ。