雨降りの日のあなたの声は、白い空と同じように輪郭がぼんやりして聴こえる。
今日の雨は少し懐かしい匂いがする、とあなたは言った。
それを思い出しながら、匂いや香りというのは、とても霊的なものだと、私は思う。
だって、五感のなかで最も言語化するのが難しいから。
肌を刺すような寒さ、目に鮮やかな赤い色、顔をしかめる苦み、凛とした鈴の音。
それらに比べて、匂いや香りというものを表現する語彙は少ない。
甘い香り、と呼んだところで、甘いというのは味覚から借りてきた表現でしかなくて。
いい、イヤな、やさしい、強い、下品な…嗅覚を表現する語というのは、どれも曖昧だ。
第六感や感性といった霊的なものに、もっとも近いのが、香りなのかもしれない。
あなたのようにいつも香りに敏感だったなら、私も少し世界を違ったように見られたのだろうか。
暦の上では入梅したらしい。
今日の傘と靴を選びながら、私は雨降りの今日をスキとキライのどちらのラベルを貼ろうか、迷っている。
そういえば、あの日履いていたミュールは、折れたヒールと一緒にシューボックスに入ったままだった。
フロントガラスを叩く雨粒は、一つ一つが生き物のように揺れては流れていく。
水には、人の記憶が宿るのかもね、とあなたは言っていた。
ドトールの小さな灰皿から、大きくはみ出た白い煙草を、いつも私は眺めていた。
この雨粒一つ一つにも、記憶が宿っているとしたら、そりゃあ雨の日は叙情的にもなるんだろうな、と私は思う。
あなたが選んだ言葉に乗せた意味を、私は考える。
その重みを、その響きを。
どのくらい本当だった?
と呟いたけれど、そのことについて考える時間が無意味で馬鹿らしく思えてきたので、考えるのを止めた。
運転席のドアを開けると、雨は霧のようになっていた。
降っているのと、止んでいるのの間のグラデーションのような、霧雨。
言葉のウソとマコトも、グラデーションのようなものだと私は思う。
それは、濃度の違いのようなものだ。
あなたのマコトは、私のウソの濃度なのかもしれないし、その逆なのかもしれない。
こんな日は、ドライマティーニを飲み干した後のオリーブがかじりたくなる。
あなたは普通のものよりも、長い煙草を吸っていた。
もう銘柄の名前も思い出せないけれど。
なんでその長い煙草なの?と聞いたことがあった。
あなたは笑いながら、「特に理由はない」と答えた。
その答えを思い出して、理由がなくてよかったと私は思った。
霧雨は、また粒になって降り出した。
紫陽花が、濡れていた。