3月10日。
火曜日。
昼前から雨、のはずだった。
予報は外れ、朝から降り出していた。
分厚い雲から泣き出すように降り出した雨は、どこか季節感がなかった。
どこか空気が重苦しく、鬱陶しかった。
雨の足音だけが、車内に響いていた。
そういえば、3月10日だった。
母の命日だった。
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春という季節は、心もようを不安定にさせる。
輪郭がぼやけた陽気がそうされるのか。
それとも、冬ごもりの間に溜め込んだ毒素がそうさせるのか。
薬缶に張った水。
火にくべて熱を加えるときは、ぐらぐらと波立つ。
けれど火を消して冷ますときは、水面に一つの波も立たない。
春という季節は、私の心もようを不安定にさせる。
生命を謳歌するはずの季節に、不安と怖れを覚える。
その対象は、目先の何か個別の問題のように見える。
けれど、多くの問題がそうであるように。
それは、直視できない問題から目線を逸らすためのダミーだ。
突き詰めていくと、その不安と怖れの対象は、死だ。
それは、生きることへの根源的な怖れでもある。
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すべての人間の行動原理は、愛であるという。
愛ゆえに。
愛ゆえに人は与え、責め、許し、愛し、奪い。
癒し、傷つき、怖れ、歌い、生きる。
世界のどこを切り取っても愛が残るならば。
愛に何を結び付けても構わないのだろう。
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一方で、人はかつて自分が愛されたように、他人を愛する。
言葉で伝える愛し方もあれば、
抱きしめる愛し方もあれば、
何も言わずに見守る愛し方もあれば、
暴言を投げつける愛し方もあるかもしれない。
孤独と寂しさこそが、愛。
私は長らく、そう思い定めてきたのかもしれない。
父が。
そして、母が与えてくれたものだから。
ほんとうに大切なものからは、離れることで愛したくなる。
それは、春に少し似ている。
生命を謳歌するはずの季節に、死の怖れを想うことに。
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しだれ桜の色を想うとき、母を思い出す。
いや、母の不在を思い出す。
なぜか、その記憶には、春の音も、桜の匂いもない。
ただ、画面越しに映った画素の荒い色を、覚えている。
冷たい雨は、変わらずアスファルトを濡らしていた。
3月10日が、流れていく。