梅雨の合間の空の色は、もう夏色だった。
春先の輪郭のぼやけた色調は、もうどこにもなく、透き通った青色のグラデーションが広がっている。
流れる雲の形も、なぜか夏を感じさせる。
降ったり止んだりの空が続いていたが、梅雨の合間の太陽は喜びに満ちているようだ。
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ふと、一筋の飛行機雲を見て、私は寂しさを覚えた。
外界の世界から感じることは、ただ自分の内面の投影である。
「強烈に一人になりたい私」と、
「痛烈につながりたい私」が、
どうも私の中では共存している。
つながりの中にいると一人内省の時間が欲しくなり、
一人でいるとつながりを求める内なる叫びが聞こえる。
つながりが切れることへの怖れは、いつから私の中に住みついているのだろう。
それは親しい人との別離の経験よりも、もっと古い記憶のような気がする。
その記憶は、果たして事実なのだろうか。
それとも、私の中の真実なのだろうか。
事実ならば変えられないけれど、
真実はいくらでも変えられる。
別離は事実なのかもしれないが、
孤独は真実ではないかもしれない。
切れていると思うから、つながろうとする。
されど、つながっていることが分かっていれば、大丈夫なのだ。
つながりを忘れ、そして思い出し、また忘れ…
それは、寄せては返す波のように訪れる。
人は、その波の合間を縫って生きる。
梅雨の合間の太陽のようなものなのかもしれない。
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すべての「答え」は、その「問い」の質が反映される。
欲しい「答え」を得ようと思うなら、
「問い」の質を高めることだ。
そして、「問い」が生まれた瞬間に、「答え」もまた同時に生まれている。
それは、
どこかここから遠くではなくて、
誰かすごい人の語る言葉の中ではなくて、
積まれた書物の中にではなくて、
私の、内側に。
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夏空に、私は問う。
寂しさを癒すものは、何だろう。
別れ際の「またね」を実現することなのだろうか。
楽しかった、その時間を語ることなのだろうか。
どれも正解なのだろう。
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見上げれば、ずいぶんと雲は流れ、夏空の模様は大きく変わっていた。
飛行機雲よ、またね。
また会おうね。
そう言って、私は歩き出す。