大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

梅雨の合間に。

梅雨の合間の空の色は、もう夏色だった。

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春先の輪郭のぼやけた色調は、もうどこにもなく、透き通った青色のグラデーションが広がっている。

流れる雲の形も、なぜか夏を感じさせる。

降ったり止んだりの空が続いていたが、梅雨の合間の太陽は喜びに満ちているようだ。

ふと、一筋の飛行機雲を見て、私は寂しさを覚えた。

外界の世界から感じることは、ただ自分の内面の投影である。

「強烈に一人になりたい私」と、

「痛烈につながりたい私」が、

どうも私の中では共存している。

つながりの中にいると一人内省の時間が欲しくなり、

一人でいるとつながりを求める内なる叫びが聞こえる。

つながりが切れることへの怖れは、いつから私の中に住みついているのだろう。

それは親しい人との別離の経験よりも、もっと古い記憶のような気がする。

その記憶は、果たして事実なのだろうか。

それとも、私の中の真実なのだろうか。

事実ならば変えられないけれど、

真実はいくらでも変えられる。

別離は事実なのかもしれないが、

孤独は真実ではないかもしれない。

切れていると思うから、つながろうとする。

されど、つながっていることが分かっていれば、大丈夫なのだ。

つながりを忘れ、そして思い出し、また忘れ…

それは、寄せては返す波のように訪れる。

人は、その波の合間を縫って生きる。

梅雨の合間の太陽のようなものなのかもしれない。

すべての「答え」は、その「問い」の質が反映される。

欲しい「答え」を得ようと思うなら、

「問い」の質を高めることだ。

そして、「問い」が生まれた瞬間に、「答え」もまた同時に生まれている。

それは、

どこかここから遠くではなくて、

誰かすごい人の語る言葉の中ではなくて、

積まれた書物の中にではなくて、

私の、内側に。

夏空に、私は問う。

寂しさを癒すものは、何だろう。

別れ際の「またね」を実現することなのだろうか。

楽しかった、その時間を語ることなのだろうか。

どれも正解なのだろう。

見上げれば、ずいぶんと雲は流れ、夏空の模様は大きく変わっていた。

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飛行機雲よ、またね。

また会おうね。

そう言って、私は歩き出す。