週末、息子とクワガタ捕りに出かけた。
この時期特有の気まぐれな天候に、決行日を振り回されたけれど、子どものワクワクのエネルギー、そして必要以上に心配する大人の浅はかさ…いろんなものを見せてくれた。
信じることも、心配することも、疑うことも、結局は同じ愛から流れ出ているものに過ぎないのだが。
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この時期の天気は、本当に不安定でよく変わる。
先日の梅雨の合間に見た青空があったかと思えば、突然激しい雨が降ったりする。
息子と約束してた週末の土曜日の予報は、その週の前半には晴れだったのだが、週中からどうも様相がおかしくなり、金曜日には完全に雨傘のマークがついた。降水確率は一日中90%と出ている。
全国的な荒天は日曜日まで続き、災害を警戒するように、というニュースまで流れている。
雨の山道は危ないし、そもそもお目当てのクワガタは出てこない。
今年も同行してくれる友人の「クワガタ先生」と相談し、いったん土曜日を延期にすることにした。
雨予報と中止を聞いた息子は、予想通り大暴れした。
なんで雨なんだ!
雨はイヤだ!
雨男はおとうか!
だから先週行っておけばよかったんだ!
なんとかしろ!…と。
よく「雨男」なる言葉を知っているなぁ、と妙に感心しながら、天気以上に大荒れの息子をなだめる金曜日の朝。
よく晴れていた朝から、午後になると分厚い雲が空を覆い始めていった。
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翌土曜日の朝5時に、息子に叩き起こされた。
「雨、降ってないぞ!ちゃんと昨日、雨が降らないようにお祈りしておいたから!いまから行くって、クワガタ先生に言って!」、と。
事実、雨は降っていなかった。
息子の祈りが通じたのだろうか、空一面に分厚い雲が出ていたが、雨は降っていない。
ただ、そうは言っても、これから天気がどうなるか分からないし、まして山の近くの天気は変わりやすい。
それでも行く、と強硬に主張する息子。
好きなことというのは、こんなにも純粋なエネルギーを与えてくれるものなんだな、と思わされる。
天気予報を見ると、明日の午前中まで渋った天気だが、午後は晴れそうだ。
日曜日の夕方にしようと息子に言い、クワガタ先生の約束を取り付けた。
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日曜日の夕方、渋滞する車の中、助手席で焦れる息子を横目に、私は心配になってきた。
これだけ楽しみにしていて、もしクワガタがいなかったら、どうしようか。
いや、自然のことだから、十分にその可能性はあるよな…
そうしたら、息子はどれだけガッカリするだろう…
自分の祈りが通じて、せっかく土曜日に雨が降っていなかったのに、なんで連れて行ってくれなかったのか、とか思うのかな…
思考というのは、シミのようなもので、一度染み出すと際限なくそちらの方向へ考えだす。
考えても、仕方のないことなのに。
日曜の夕方の幹線道路は大渋滞していて、息子に急かされて出たのが正解で、約束の時間ぴったりに着くことができた。
蚊よけの長袖とパーカーを着て、祈るような気持ちで車を降りて歩き出す。
神々しい夕陽。
その夕陽が、雨に濡れた草を照らしていた。
ほどなくして、お目当ての木の近くにたどり着く。
…いた。ノコギリクワガタだ。
木のうろに、すっぽりと身体を隠している。
木の枝を使って、うろの中からほじくり出して、捕獲した。
心配性で怒られたおとうも、少しは息子の前でいいところを見せられたのだろうか。
根本の方には、もう一匹ノコギリクワガタと、小さなコクワガタのメスもいて、都合三匹のクワガタを捕まえることができた。
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帰りの道中、後部座席で捕まえたばかりのクワガタを、満足げにしげしげと息子をバックミラーで眺めながら、捕まえられてよかったと思った。
それにしても、いつからあの息子のような純粋にワクワクすることや、明るい未来を信じる心が、心配したり疑ってしまうことに変わってしまったのだろう。
心配したり、疑ったりすることが悪い訳でもない。
結局、それも息子を想う気持ちの裏返しであることは分かっている。
ただ、無心で壁にボールを投げて、夢想していたあの頃。
あの頃の私も、息子と同じ瞳をしていたのだろうか。
好きなことを無心で歩くことが人生の要になります。
去年、聞いた言葉を思い出す。
もっと、好きなことに、無心で。
それが見つからなければ、何でもひたすらにやればいい。
ただ、ひたすらに自らの心震わせ、喜ばせることに夢中に。
できるはずだ。
いまの私の瞳に映る息子の姿もまた、私の内面の投影に過ぎないのだから。