何か外的要因で「やる気」を出すのは簡単だけれども、自ら「やる気」を出すのは本当に難しい。
雑誌やネットで「健康にいい」という情報を見て、「やってみよう」と思い立っても、なかなか「腰をあげて実際にやる」までには至らない、というように。
「やる気」は、「やりはじめないと出ない」という天邪鬼な性格のようだ。
ということは、「やる気を出すことの」よりも、「やる気がなくても、とりあえずやり始める」ことの方が大切なのかもしれない。
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また少しずつ走り始めた。
以前のように疲労骨折しても走り続ける、みたいな「続けられないと自分には価値がない」という思い込みではなくて、無理せず、できる範囲で。
やはり走ったり、身体を動かすことは、思考やメンタルに大きく影響するようで、ぐるぐるとしていた思考も、ランニングから帰ってくるとスッキリする。
走り始めてしまえば、道行く景色だったり、今日の月の表情であったり、あるいは今日の流れる空気の雰囲気だったり、楽しみがあって飽きない。
ある程度走って身体が暖まると、心地よくなってくるし、その日の眠りの質も深いように思う。
けれど、それは分かっているんだけれど…これが走り始めるまでが面倒で、時間を見つけて、着替えて外に出る、というところまでたどり着くまでがネックだ。
走ること自体が苦痛なのではなくて、走り始めるまでが苦痛なのだ。
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それもそのはず、「やる気」を生み出すのは、脳の側坐核という場所にあり、そこに刺激が与えられることで活性化し、「やる気」が生み出される、という仕組みになっているそうなのだ。
つまり、「やる気」を出そうとするならば、「やり始めるしかない」というパラドックス。
やりはじめないと、やる気は出ないらしい。
ということは、ランニングなり、他の何かでも、自分がいいと思う習慣を続けようとするならば、それを半強制的にでも「やり始める」状況を作るのが早いようだ。
どういう状況なら、必ず「やり始める」ことができるのか。
「やり始める」ハードルを、いかに下げるのか。
そういったことを楽しんで考えていくのも、習慣化の楽しさのように思う。
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ということで、せっかく再開したランニングであるので、そのランニンググッズ(着替えとシューズ)を、普段の通勤の車に積んでおくことにした。
家に帰ってくつろいでしまう前に、着替えて1キロでもいいから走る。
何なら、着替えただけでもよしとする。
それくらい「やり始める」ハードルを下げて、末永く走り続けてみようと思う。
ランニングしていると、いつもの街並みからこんな美しい夜景が見えることもある。
そして、ランニングはさまざまなところへ走っているように見えて、実はどこへも行っていない。
必ずスタート地点へ帰ってくる。
どこへも行かない。
このあたり、ランニングと瞑想が似ているところでもある。
そしてそれはまた、人生の縮図でもある。
遠くへ来たように思えても、実はどこにも行っていない。
私はここにいる。
あなたはここにいる。
ここにしか私はいない。
ここにしかあなたはいない。
また、走り続けてみよう。