自分の人生の羅針盤は何か。
それを、きちんと言語化することが必要だと感じた、断酒についてのお話し。
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早いもので、断酒して232日。もう8か月が過ぎようとしている。
ここのところ、お久しぶりの方から「名古屋行くんで飲みましょう」とか「ちょっと話を聞いてくださいよ」とか、お声がけを頂くことが重なっている。
こういうお声がけやお誘いというのは、なぜかある時期に集中するように思うのだが、不思議なものである。
それはさておき、お久しぶりの方と会食をすると、どうしても断酒していることを話さないといけなくなる。
よく飲み、よく潰れていた以前の私をご存知の方からすると、断酒というのはなかなかのインパクトのようで、「なんで辞めたんですか?身体壊したか、酔っ払って何かやらかしたんですか?」とよく聞かれる。
その度に一から説明するのが正直、億劫なのだが、「詳しくはブログで!」とも言えないので、何とか説明しようと試みるのだが、なかなか相手の方に「なるほど!」と納得してもらえたことは、残念ながらいまのところ、ない。
なぜだろう、と考えていたのだが、そもそも私がそれを明確に言語化できていないから、なのだと思う。
小雨の降る橋の上で「断酒」しようと思ったのだが、それも「何となく」「ふと」そうしようと思ったから、それに従った、と記憶している。
されど、「何となく」「ふと」でもいいのだが、「なぜ」そう思ったのか、言葉で説明を試みることは、とても意味のあることではないかと、最近つとに感じる。
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結局、断酒という「行動」について話をしても意味がなく、その行動に至るまでの「前提」や「心理的背景」にこそ、意味があると思う。
かのニーチェの言葉で、
君たちが知っているのは、わずかに精神の散らす火花にすぎぬ。
しかし君たちは、火花を叩き出す金敷を見ない。
これこそが精神なのに。ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」
という言葉があるが、ニーチェの言うところの「火花」が「行動」であるとするなら、「金敷」こそが「前提」「心理的背景」であるのではないか。
誰か彼かの「行動」を見ては、一喜一憂するのもいいが、その「行動」を支える「前提」「心理的背景」こそが、重要ではないのだろうかと思うのだ。
そして、それはなにも「断酒」に限った話ではない。
生きること、人生そのものについても、同じことである。
すなわち、手垢のつきまくった言葉ではあるのだが、
何のために生きるのか、である。
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自分の人生の羅針盤は何なのか。
その羅針盤に従い、どうなりたいのか。
私は、誰にとってどんな存在でいたいのか。
この与えられた生で、何を成し遂げたいのか。
そして、何を体験したいのか。
私にとって、生きることとは何なのか。
この限られた生を、どんな人たちのために使いたいのか。
いつか来るその日に、どんな風景の中で目を閉じたいのか。
その風景につながるために、今日なにをするのか。
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すなわち、人生の羅針盤。
もちろん、正解はない。
そして、それはどこか外側に探すものではなく、すでに自分の内側にあるもの。
ただ、それをすくい取るだけ。
半年前に、特急しらさぎ号に揺られながら私自身の物語を描いた。
その物語をもう一度書き直すとともに、人生の羅針盤を言語化してみようと思う。
少し話が大きくなったが、断酒はいろんなことを教えてくれるようだ。