「待つ」ためには、時間が必要だ。
けれど不思議なことに、人は年を重ねて、有限な人生の時間が残り少なくなるほどに、「待つ」ことができるようになるらしい。
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種を蒔いて水と肥料をあげたら、待つことが必要になる。
日にち薬、という言葉があるように、時間が最高の癒しになることもある。
ダイエットなりランニングなりのある種の習慣を始めて、効果が出るまでには一定の時間がかかる。
「待つ」ことは偉大な、能動的な行為なのだが、ともすると「何もしていない」ように思えて、なかなかじっと「待つ」ことができなくなる。
種を蒔いた場所の土壌が悪かったのか、などと心配になって掘り起こしてしまったり、
まだ安静が必要なのに、無理して動いてしまい病状を悪化させたり、
効果が出る前に、その習慣を止めてしまったりする。
どれも、身に覚えのありすぎることだ。
どんないい習慣だったり、身体にいい食材だったりしても、一回限りで効果が出る、ということは、まずない。
その効果が出るまでに、「待つ」という時間の肥料が必要だ。
「願ったらあとは天にお任せ」と言われるように、お任せするとは「待つ」という時間の肥料を与えることだ。
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さて、「待つ」ことに必要なのは時間だ。
だとするなら、年齢が若い程に「待つ」ことの効果は高いように思えるのだが、不思議なことに若い時ほど、待てないようだ。
どうしても功を焦り、自分で何とかしようとして、「待つ」よりも「動く」方を選んでしまう。
それが、歳を重ねると、「待つ」ことが苦ではなくなるように感じる。
個の生命としての時間は有限で、歳を重ねるほどにそのリミットは近づいていくのに、不思議なものだ。
誰でも歳を重ねるごとに、自分の力で何とかしようとするよりも、大きな流れに委ねることを学んでいくのだろうか。
「待つ」という時間の流れと、有限な個としてのタイムリミットの、相反する関係。
この世は不思議なものである。
おおきくなーれ、おいしくなーれ。