大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

歳を重ねるほどに「待つ」ことができるようになる不思議。

「待つ」ためには、時間が必要だ。

けれど不思議なことに、人は年を重ねて、有限な人生の時間が残り少なくなるほどに、「待つ」ことができるようになるらしい。

種を蒔いて水と肥料をあげたら、待つことが必要になる。

日にち薬、という言葉があるように、時間が最高の癒しになることもある。

ダイエットなりランニングなりのある種の習慣を始めて、効果が出るまでには一定の時間がかかる。

「待つ」ことは偉大な、能動的な行為なのだが、ともすると「何もしていない」ように思えて、なかなかじっと「待つ」ことができなくなる。

種を蒔いた場所の土壌が悪かったのか、などと心配になって掘り起こしてしまったり、

まだ安静が必要なのに、無理して動いてしまい病状を悪化させたり、

効果が出る前に、その習慣を止めてしまったりする。

どれも、身に覚えのありすぎることだ。

どんないい習慣だったり、身体にいい食材だったりしても、一回限りで効果が出る、ということは、まずない。

その効果が出るまでに、「待つ」という時間の肥料が必要だ。

「願ったらあとは天にお任せ」と言われるように、お任せするとは「待つ」という時間の肥料を与えることだ。

さて、「待つ」ことに必要なのは時間だ。

だとするなら、年齢が若い程に「待つ」ことの効果は高いように思えるのだが、不思議なことに若い時ほど、待てないようだ。

どうしても功を焦り、自分で何とかしようとして、「待つ」よりも「動く」方を選んでしまう。

それが、歳を重ねると、「待つ」ことが苦ではなくなるように感じる。

個の生命としての時間は有限で、歳を重ねるほどにそのリミットは近づいていくのに、不思議なものだ。

誰でも歳を重ねるごとに、自分の力で何とかしようとするよりも、大きな流れに委ねることを学んでいくのだろうか。

「待つ」という時間の流れと、有限な個としてのタイムリミットの、相反する関係。

この世は不思議なものである。

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おおきくなーれ、おいしくなーれ。