年の瀬は、師走にしてはめずらしく雪が降ったりと、荒れた天気が続いておりましたが、新年明けてからは気持ちのいい天気が続いています。
気づけば、時候は「冬至」も末。明日からは「小寒」、寒の入りともいわれる、冬本番に入ります。
風は冷たいのですが、新春の澄みわたった空の下、その陽の光を浴びるのは気持ちがいいものです。
その陽気に誘われて、いつもよりも長めに歩いてゆっくりとした時間を過ごすことができました。
何か目的地に向かって歩いているときは、意識がそこに向いているので、歩くという行為は手段になります。
けれど、歩くこと自体を目的にしていると、いろんな恩恵が降ってくるようです。
それは、少しずつふくらみ始めた梅の蕾だったり。
この蕾が開くころには、もう暦の上では春になっているでしょうか。
年を重ねるごとに、梅の花に惹かれるようになってきた気がします。
あるいは、木蓮のふわふわとした蕾だったり、
あるいは、いつもとは違う言葉が振ってきたり。不思議なものです。
京都に、「哲学の道」とよばれる道があります。知の巨人、西田幾太郎先生が思索をめぐらせながら、毎日歩いたとされる道。
西田先生をしても、やはり日々のそうした時間が必要だったのでしょうか。
やはり、人の思考というのは、何か頭をめぐらせて考えるよりも、足や手といった身体的な動きといったものに、大きく左右されるのかもしれません。
桜の名所でもある、「哲学の道」。
その桜もまた、春を待ちながら蕾を少しずつふくらませているのでしょうか。
少し立ち止まって、木蓮を眺めながら。
「木蓮は、木の伝達者なのよ」
以前に聞いた、そんな言葉を思い出します。
新春の陽の光を浴びて、そのときをじっと待つ木蓮。
その姿は、私に何を伝えてくれているのでしょうか。それを考えながら、もうすぐ咲くであろう、その白く美しい花を思い浮かべてみました。
実に、豊かな時間でした。
「哲学の道」は、京都でなくても、いまこの歩いている道が、そうだったのかもしれません。
もしかしたらそれは、「哲学の道」に限らず、多くのことに言えることなのかもしれません。
ただ、いまここに、あるがまま。
木蓮は、やはりいろんなことを教えてくれるようでした。
もう明日からは、冬本番の小寒。
木蓮のおかげか、この冬至の時節が過ぎゆくのが、少し惜しく感じられる一日でした。