よくも悪くも他人のことはよく分かるのに、人は自分のことを自分が一番分かっていない。
だからこそ、他人がいるとも言えるのだが。
そして、一番分かっていないのは、過去の自分のことなのかもしれない。
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さて、断酒も400日を越えた。
世間は師走の忘年会シーズンと年末年始で、アルコールの摂取量が上がる時節だが、相変わらず断酒は続いている。
そんな師走の日、旧知の方たちと忘年会のような会食の時間があった。
普段はひとりで伺うところも、人数が多いと見慣れないお皿の絶景が。
冬は、お魚が美味しくていいものだ。
からすみ餅の大群を前に、お米からお餅とお酒がつくられるのは、奇跡だなぁ…と思いながら、ゆっくりとした時間が流れる。
ご一緒させて頂いた知人たちは、私がワーカホリックに働いていた時代の知人たち。
振り返ってみても、よく、働いていたように思う。
時間的、物理的にもそうだったし、精神的にもそうだった。
親しい人間を亡くした寂しさを忘れるためには、ワーカホリックというアンダーグラウンドが必要だったのだろう。
逆に、いまのような「働き方改革」と言われて、そのような働き方ができなかったら、私は何に依存していたのだろうか、と考えることがある。
それに気づいたのは、十数年もあとのことだった。
その寂しさを癒しはじめるのに、それだけの時間がかかったとも言える。
けれど、知人の中の一人が、「こんなつながりをありがとうございます」と仰っていた。
大事な人に言われる言葉ほど、人は素直に受け取ることができないものだ。
とたんに私の「ウケトラナイモード」が発動する。
いや、そんなことないです…
いや、あんなに仕事しかしてなかったですから…
いや、もっと周りの好意を受け取れていたら…
いや、もっと恩返しができてたはずだから…
いや、もっと素直になれていたら…
そんなせんない想いが去来する。
このモードに入ったことを自覚できるだけ、成長したということにしておこう。
そうかもしれない。
けれど、そうじゃないかもしれない。
どちらでも、いいのかもしれない。
その知人と仕事をしていた過去の自分が、まぶたの裏に浮かんだような気がした。
目の前では穴子と鮪の頬肉が、ぱちぱちと音を立てていた。
炭火は、この焼けの遅さがたまらなくいいものだ。
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未来のことはよく分からないけれど、過去は変えられる。
感情を切って、ワーカホリックに働いていたのかもしれない。
けれど、周りから見ればそうでもなかったのかもしれない。
それは、どちらでもいいのだとも思う。
いまの自分が、選びたい方が選べば、よいのだとも。
とりあえず、その十数年前のある日の私も、今日の私も、「よくがんばった」、それでいいのだと思う。
師走の週末の終電前らしく、地下鉄はすし詰めだった。
その揺れに身体を預けながら、私は絶品だったからすみ餅の味を思い出していた。