確かに春の気配が感じられるような、日中の陽気。
立春を過ぎてから、そんな晴れた日が続きます。
厳しい寒さの冬は、どこへやら。
どこか緩んだ陽気は、2月の上旬の寒さらしくない気もします。
その陽気に誘われて、いつもの公園、いつもの散歩道を。
写真で見ても、その陽気が伝わるでしょうか。
落ち葉を踏みしめて歩いていると、マフラーと手袋が暑く感じられるほどでした。
また、しばらくしたら、寒の戻りがあるのでしょう。
けれども、訪れたこの陽気に、この森に棲む生きものたちは、きっと気づいているのでしょう。
三歩進んで二歩下がる。
三寒四温。
進んでは戻り、戻っては進み。
そんなことを繰り返しながら、季節は進んでいくようです。
昨日見た木蓮。
固い殻をようやく開いて、ふさふさした顔を出した蕾が、奥に見えます。
どれだけ固い殻に包まれていても。
だいじょうぶ。
どれもこれも、ぜんぶその蕾が開いていく。
その固い殻は、厳しい冬の寒さから、蕾を守ってくれていたもの。
だから、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
固い殻に感謝して、それを手放そう。
私たちの心も、似たような軌跡をたどるのかもしれません。
固い殻のような観念、思い込み、あるいはビリーフといったものが、私たちを縛り、生きづらくさせます。
それに気づくと、私たちは何とかして、それらを排除しようとします。
これがあるから、だめなんだ。
これが、いけないんだ。
しかし、それは時として過去の自分を否定してしまうことにつながってしまいます。
自分の過去を否定してしまうのは、根っこを失うようなものです。
そうではなくて、それらもまた、自分の大切な一つの要素。
いままで、私を守っていてくれて、ありがとう。
そのように思えたのなら。
この木蓮の固い殻のように、ほろりと外れていくのかもしれません。
木蓮は、いろんなことを伝えてくれるようです。
「木蓮は、木の伝達者なんですよ」
いつか聞いた、そんな言葉を思い出します。
訪れた春の日差しを浴びて、そのときを待つ木蓮。
その姿はかわいらしくもあり、またある種の神々しさを感じさせます。
立春を過ぎた日の光を浴びた木蓮は、実に神々しく。
この時期だけに見れる、とびきりの贈り物なのかもしれません。
木蓮が、伝えてくれるもの。
難しく考えなくても、ただ、その姿を眺めていればいいのかもしれません。
立春を過ぎて。
そのふさふさとした蕾が花開くことを、楽しみにしながら。
木蓮が伝えてくれるものを、受けとっていきたいものです。