大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

あたりまえと、ありがとう。

今日のエントリーを書こうとパソコンをつなげる。

スマートフォンでも書けるのだが、やはりフリック入力よりもキーボードの方が早いし、どうも「書いている」気になるので、もっぱらブログを書くのはパソコン派だ。

しかし、立ち上げると見慣れないマークが出ており、なぜかネットに接続できない。

いつもは自宅のWi-Fiと接続しているのだが、ネットの接続アイコンにエラーが出ている。

ブログを書いて早めに寝ようと思っていたこと、

「何で、いまなんだよ」

と悪態をつきながら、苦手なトラブルシューティングの項目を検索しながら、イライラする。

いろいろと試してみるが、いっこうに接続できず。

仕方なく、どこに仕舞ったか忘れてしまったLANケーブルのために家探しして、有線で繋いでみるとあっさりとつながった。

いつもパソコンを置いている場所は、LANケーブルの接続口から遠く、引っ越しを余儀なくされたが、それでも使う分には支障なく。

どうやら察するに、パソコン本体のワイヤレス接続に問題があるのか、壊れているようだった。

とりあえずは、ネットにつながっただけでも御の字としよう、とほっとする。

落ち着くと同時に、

「何で、いまなんだよ」

という悪態に、おそらくは、いまでなくてはダメなんだろうと考え直す。

翻って考えてみるに、このパソコンも10年前に転居と一緒に買ったものだった。

OSのバージョンもサポートが切れるし、そろそろ買い替えなければ、と思っていた。

あぁ、買い替え、設定など面倒だなぁ、というため息とともに。

このパソコンに、10年間お世話になってきたのに。
大きな故障もなく、10年間お勤めしてくれたのに。

それが、たかだか1回、不具合が起こっただけで、なんと傲慢なことか。

結局のところ、人は何かを失うことで、ようやくそのもののありがたみを知ることができるのだろう。

パソコンに限らず、電気、水道、公共交通機関、4G、SNS…

どんな便利なものも、どんな貴重なものも、どんな優しさも、それが「当たり前」になってしまえば、何のことはない。

「ありがとう」という感謝を忘れ、傲慢になるだけだ。

そして、ある日突然、それが無くなった瞬間に思い知らされる。

どれだけ、それが「ありがたい」ものだったのか、と。

「ありがとう」の反対は、「あたりまえ」なのだ。

モノやサービスに限らず、人間関係でもそうだ。

気にも留めていなかった優しさや愛情、気遣い。

あまりにも相手が与えてくれるので、それが当たり前だと思い始めると、歯車が狂いだす。

それを与えてくれているのは、機械でもbotでもなく、生身の人間である。

相手が与えることに疲れ、その当たり前が無くなってしまったとき、初めてそのありがたさを知る。

両親、恩師、友人、パートナー…

あらゆる人間関係で、あたりまえとありがとうのシーソーは、繰り返される。

そのたびに、わたしたちは心を通わせることを学び、その奇跡に「ありがとう」と感謝したくなる。

それは学びでも習慣でもなく、自然発生的なものだ。

だから、誰もがその大切さを説く「感謝」というものを、「理解」することは難しい。

それは、どこまでも個人的で、どこまでも心のパーソナルな部分に絡むからだ。

10年間も、使わせてもらったのだ。

このパソコンで、いろんなものを書いてきた。

ブログもそうだし、寄稿記事、いろんな依頼文…

そう考えると、感慨深い。

やはり、ありがとう、しかないのだろう。

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10年選手。いままで大きな問題もなく。ありがとう。