大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ありふれた、それでいて、特別な。

私も含めた男性にとって、「比較競争」という罠は、なかなかにハマりやすい。

他人に対してマウンティングや順位・ランク付けをしてしまうくらいは、割と分かりやすいのだが、厄介なことにそうでない形で現れることもある。

それは例えば、
「(自分が敵わない)競争から降りることで、(暗に)競争している相手を見下す」
ことも同じ穴のムジナだろう。

かけっこでは敵わないから、その競争からは降りる。
降りながら、「足が速くたって、別にすごくないさ」とうそぶきながら。

あるいは
「自分以外の外の誰かを、崇め奉ること」
も、実は強烈な競争心の合わせ鏡であることが多い。

自分は周りよりも優れた特別な人だという意識がまずあって。
その特別性を相手に投影することで崇拝は始まり、やがて依存に陥る。

かくも、「比較競争の罠」というのは、イヤらしく、また気づくと囚われる。

どうして人は比較と競争をしてしまうのだろう。

やはり、「自分だけは特別」だと思いたいのだろうか。

何も持っていない自分は嫌だし、
自信の持てない私は醜いし、
ありふれた凡人であることは認められない。

だからこそ、

権威のある人に認められたり、
特別な才能や能力があると思い込もうとしたり、
自分だけの何かを見つけようとする。

自らの存在意義を、そこに求めようとする。

思うに、やはり人は思春期あたりに、こうした「特別性」を求めるようになる気がする。

日々身体が変化し自我を確立していく過程で、他人との違いに目覚め、比較と競争の罠の中で、「特別な自分」を求める。

いまで言えば、中二病とでも呼ばれるのだろう。

私も、そうだった。

足が遅くて、くせ毛や容姿にコンプレックスがあり、異性の前ではアガってしまう。

そんな自分が、ある朝起きたりすごい才能に目覚めたり、 あるいは実は特別な能力を持っていたり…そんな妄想をしていた。

変身願望、とでもいうのだろうか。

実は自分は、世界を救うヒーローだった…とまではいかないが、自分ではない特別な誰かになりたい(あるいは、あってほしい)という感情は、多くの「中二病」の時期を通った人が経験するのではないかと思う。

そして、それは大人になっても、手を変え品を変え残っていくように感じる。

仮に、幸運にもそうした「特別な何か」を得たとしても、それはいつか崩れる。

自分の外に基準があるからだ。

思うに、大人になるとは、ほんとうの意味で自立するとは、ありふれた、どうしようもない、何も持たない自分から始める、ということなのだろう。

言い換えれば、それは目の前にある「現実」を受け入れる、ということでもある。

足が遅くて、
くせ毛で、
ぱっとしない容姿で、
異性の前でアガってしまう、
特別なものなど何もなく、ただありふれた自分。

そこから始める、ということだ。

そして、逆説的ながら、実はそれが最も「特別な」ものでもある。

見上げるこの空が、どこにでも広がっている空でもあり、
それでいて、どこにもない空であるように。

そこには、比較も競争もないのだろう。

ただ、そこに在るだけ。

そこに、在るだけ。

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「夕焼け」というと普遍的だが、「この」夕焼けは唯一性を持つような。