私も含めた男性にとって、「比較競争」という罠は、なかなかにハマりやすい。
他人に対してマウンティングや順位・ランク付けをしてしまうくらいは、割と分かりやすいのだが、厄介なことにそうでない形で現れることもある。
それは例えば、
「(自分が敵わない)競争から降りることで、(暗に)競争している相手を見下す」
ことも同じ穴のムジナだろう。
かけっこでは敵わないから、その競争からは降りる。
降りながら、「足が速くたって、別にすごくないさ」とうそぶきながら。
あるいは
「自分以外の外の誰かを、崇め奉ること」
も、実は強烈な競争心の合わせ鏡であることが多い。
自分は周りよりも優れた特別な人だという意識がまずあって。
その特別性を相手に投影することで崇拝は始まり、やがて依存に陥る。
かくも、「比較競争の罠」というのは、イヤらしく、また気づくと囚われる。
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どうして人は比較と競争をしてしまうのだろう。
やはり、「自分だけは特別」だと思いたいのだろうか。
何も持っていない自分は嫌だし、
自信の持てない私は醜いし、
ありふれた凡人であることは認められない。
だからこそ、
権威のある人に認められたり、
特別な才能や能力があると思い込もうとしたり、
自分だけの何かを見つけようとする。
自らの存在意義を、そこに求めようとする。
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思うに、やはり人は思春期あたりに、こうした「特別性」を求めるようになる気がする。
日々身体が変化し自我を確立していく過程で、他人との違いに目覚め、比較と競争の罠の中で、「特別な自分」を求める。
いまで言えば、中二病とでも呼ばれるのだろう。
私も、そうだった。
足が遅くて、くせ毛や容姿にコンプレックスがあり、異性の前ではアガってしまう。
そんな自分が、ある朝起きたりすごい才能に目覚めたり、 あるいは実は特別な能力を持っていたり…そんな妄想をしていた。
変身願望、とでもいうのだろうか。
実は自分は、世界を救うヒーローだった…とまではいかないが、自分ではない特別な誰かになりたい(あるいは、あってほしい)という感情は、多くの「中二病」の時期を通った人が経験するのではないかと思う。
そして、それは大人になっても、手を変え品を変え残っていくように感じる。
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仮に、幸運にもそうした「特別な何か」を得たとしても、それはいつか崩れる。
自分の外に基準があるからだ。
思うに、大人になるとは、ほんとうの意味で自立するとは、ありふれた、どうしようもない、何も持たない自分から始める、ということなのだろう。
言い換えれば、それは目の前にある「現実」を受け入れる、ということでもある。
足が遅くて、
くせ毛で、
ぱっとしない容姿で、
異性の前でアガってしまう、
特別なものなど何もなく、ただありふれた自分。
そこから始める、ということだ。
そして、逆説的ながら、実はそれが最も「特別な」ものでもある。
見上げるこの空が、どこにでも広がっている空でもあり、
それでいて、どこにもない空であるように。
そこには、比較も競争もないのだろう。
ただ、そこに在るだけ。
そこに、在るだけ。
「夕焼け」というと普遍的だが、「この」夕焼けは唯一性を持つような。