「そういえば、お酒やめてどれくらいになるんですか」
「たしかそろそろ500日くらいだったと思うので、1年と3,4か月くらいですかね」
「もうそんなになりますか。はやいですねぇ」
「ええ、ほんとに」
「言われてみると、日本酒を飲んでた姿を忘れてしまいそうです」
もうずいぶんと長いこと、その暖簾をくぐっているお店で。
そんな他愛もない会話をした。
残念ながら「わけぎのぬた和え」は終わってしまったが、「桜鯛のあら炊き」にありついて、無心であらをつつく。
食べものほど、季節と旬を感じさせるものもない。
桜鯛の名を見て本格的な春の訪れを感じ、その旨味を吸った筍と新ごぼうで、それを愛でる。
あらの旨味を吸った新ごぼうの、美味いこと。
春野菜は、苦いものが多い。
その苦味に、冬の間に溜め込んだ毒素を、排出してくれる作用があると聞く。
春の息吹を感じながら、無言であらを解体していく。
=
いったい、忘れるとは、どういうことなのだろう。
忘れるためには、その前提として覚えていなければならない。
記憶とは何なのかを考えると、また迷路に入りそうだ。
それでも、毎分毎秒起こっている全てのことを覚えているわけではないことを考えると、やはり私たちは何がしか出来事を選別しているのだろう。
そのふるいにかかったものが、記憶という心のどこかにある宝箱に、そっと仕舞われる。
その過程を、忘れる、と呼ぶのかもしれない。
そして、その宝箱は、あるときふっと開くのだ。
言葉なのか、香りなのか、音楽なのか、味なのか、それともあるいは、痛みなのか…
そんなものを鍵にして。
忘れるためには、ふるいにかけられ、そして仕舞われないといけない。
私たちは、忘れるために仕舞い、思い出すために忘れるのだ。
=
その宝箱に至る前の、ふるい。
それは、何だろうと考える。
いったい、何を基準に選んでいるのだろう。
私たちの心を動かすものは、すべて私たち自身の心が、焦点を合わせているものだ。
地球の裏側のサッカーチームの勝敗に一喜一憂することができる人もいれば、周りの人の身につけているアクセサリに必ず目が行ってしまう人もいる。
そのふるいはやはり、
愛
と呼ぶべきものなのだろう。
もちろん、消し去りたい嫌な記憶もあろう。
されど、どうでもいいことに、人は傷つかない。
野球をやったこともない人が、「あなたは選球眼が悪いよね」と言われても、傷付きようがないではないか。
「うわ、その服のセンスないわ」と言われて傷つく人は、実のところセンスがある人なのだ。
それは、言い換えれば自分の持つセンス、感性というものに、愛を向けている人だ。
そう考えると、やはりそのふるいというのは、愛なのだろう。
そのふるいにかけて、私たちは忘却という宝箱にそっと記憶を仕舞う。
また、それを愛とともに思い出すために。
桜鯛のあら炊き、新ごぼうと竹の子。クチビルと目玉のまわりがたまらなく美味い。